一度だけ鳴る宿屋の呼び鈴
ティナは、鳴らない呼び鈴を両手で包んでいた。
亡き祖母から継いだ宿屋の受付に置く銀鈴だ。客が押せば厨房まで響くはずなのに、一月前から沈黙している。呼んでも誰も来ない宿だと評判になり、昨夜はついに空室ばかりになった。帳場には予約札が一枚も残らず、厨房では十人分のパン種がしぼんだまま。宿そのものは磨き上げても、鈴が鳴らなければ客の不安には気づけない。ティナは新しい鈴を買う金を持っていたが、祖母が毎朝磨いたこの銀鈴だけは捨てられなかった。
「金属は割れていません」
修理店主オスカーが振っても音はしない。中の舌も動く。それでも空気が震えなかった。
銀鈴の底には、宿泊客の声を運ぶ細い文字が刻まれていた。オスカーが煤を払うと、その文字の上に無数の小さな黒点が重なっている。
「呼ばれても、返事をしなかったことがありますか」
ティナは唇を噛んだ。祖母を亡くした後、厨房で泣いていて、何度か鈴を無視したという。
この鈴は音を出せなくなったのではない。届かなかった呼び声をため込みすぎ、自分の声を押し潰していた。
オスカーは鈴を火へかけず、温かな湯の上へ吊した。蒸気に触れるたび、黒点からかすかな声がほどける。お湯を、毛布を、鍵を。ティナは一つずつ聞き、すべてに「はい」と答えた。
最後の黒点が消える。
オスカーは舌の根元へ、小さな青糸を結んだ。
「これからは、本当に助けを求める呼び声だけを鳴らします。雑に連打されても一度だけ」
ティナが指で押す。
りん。
大きくはない。けれど壁も扉も越え、胸の奥まで届く音だった。店の奥に吊した鍋の蓋までかすかに応え、銀鈴の表面へ宿屋の窓明かりの模様が浮かんだ。
彼女は目を拭き、代金のほかに宿の一泊券を置いた。
「満室になったら使えませんけど」
「それなら使えないほうがいい」
ティナは笑って鈴を抱え、宿へ戻った。
静かになった店で、オスカーが一泊券を壁へ留める。
そのとき入口のベルが一度だけ鳴った。今度も、聞き逃せない音だった。