一段目に残すもの
小萩が父の家で開けたのは、勉強机の一段目だけだった。
来月には家を売るという。父から届いたメッセージには、「必要なものを全部持っていけ」と書かれていたが、小萩は一時間だけ、引き出し一つだけと返した。
中には通知表、名札、使いかけの色鉛筆、白い靴下が入っていた。靴下は小学生の足の大きさで、履き口に「おはぎ」と油性ペンで書かれている。
「まだ取ってあったんだ」
「お前が置いていったものだ」
「置いていったんじゃなくて、持っていくものを決められなかったの」
父は机の横に立ち、腕を組んだ。
「今度は全部持っていけ」
小萩は床に紙袋を一つ置いた。父が用意した段ボールは三箱あった。
「一袋だけ」
「卒業アルバムも下にある」
「今日は一段目だけ」
「家がなくなったら後悔するぞ」
「後悔するかどうかも、あとで私が決める」
父は引き出しから通知表を取り、折れないよう両手で差し出した。赤い丸のついた項目が透けて見える。
「これは大事だ」
「いらない」
「成績がよかった証拠だぞ」
「証拠がなくても、私が何をしたかは変わらない」
父の指が紙の端を強くつまんだ。褒められた記憶より、丸が一つ足りないと机の前に立たされた夜のほうが先に浮かんだ。小萩はその説明をしなかった。紙を取り合えば、また点数の話になる。
引き出しの奥に、小さな木製の鳥があった。片方の羽が欠けている。小萩が図工で作り、父が「左右が違う」と削り直そうとしたものだ。彼女はそれだけを手に取った。
「そんな失敗作を?」
「これがいい」
「直してやる」
「直さないで」
小萩は鳥を紙袋へ入れた。靴下も通知表も、元の場所へ戻す。
「残りは処分していい」
「俺に捨てさせるのか」
「持ち続けることを頼んだ覚えはない」
父は机の天板を見つめた。
「分かった」
本当に分かったかは分からない。けれど父は、通知表をもう差し出さなかった。
小萩は引き出しを閉めかけ、思い直してもう一度開けた。中身を全部取り出し、父と二人で三つに分けた。資源ごみ、布、可燃。十分もかからなかった。
空になった一段目を父が見た。
「何もないな」
「うん。何もないままでもいい」
小萩が引き出しを押すと、乾いた音で奥まで収まった。紙袋の中では、欠けた羽の鳥だけが軽く転がった。