三度目の訂正
音声認識エンジンを開発する二十六歳の久慈道昂希は、訛り学習用アプリ「名直し」をテストした。地方の名付け歌を読み上げると、発音から本来の姓名を判定するという奇妙な教材だった。
付属資料には、幼児を災いから隠す《三つ名》の習俗が記されている。生後しばらくは二つの偽名で呼び、三度目にだけ本名を告げる。名を聞きに来るものは、最初の二つを持ち帰ると信じられた。
アプリの禁忌は一つ。
《自分の名を三度聞き違えられても、三度目だけは訂正してはいけない》
三度目の誤りは向こう側が名乗った名であり、訂正すると自分の本名と交換されるという。
昂希は会議室でテストを始めた。
「久慈道昂希」
一回目の変換は〈口無し〉。誤りとして修正した。
二回目は〈代わり〉。これも修正する。
三回目、画面には〈故人〉と出た。
不快な誤変換だった。音声モデルの品質報告に残せないと思い、昂希は一度だけ、正しい姓名へ打ち直した。
〈学習しました。故人さんの正式名を久慈道昂希として登録します〉
訂正欄から彼の文字が消え、読み上げ音声が「ありがとう、名前を返すね」と囁いた。
音声モデルの学習データには、訂正前の〈故人〉が実在する話者として保存されていた。声紋は昂希と完全一致するが、録音日は十七年前。内容は、少年が病室で何度も「この名前はまだ使う」と頼む声だった。
翌朝、会社のチャットで昂希の表示名が〈故人〉に変わっていた。社員検索に本名を入れると、十七年前に事故死した同姓同名の少年の記事が出る。生年月日だけが昂希と一致していた。
人事へ連絡すると、担当者は「久慈道さんは在籍していません」と答えた。隣席の同僚も、声をかけるまで彼を空いた椅子だと思っていたという。
名直しの履歴には、交換先の端末が表示されていた。市内の児童相談所、貸与スマートフォン。利用者名は〈故人〉だったが、更新後は〈久慈道昂希〉になっている。
昂希は公的個人認証アプリを開いた。顔は一致するのに、本人情報が読み込めない。
数秒後、行政サービスから通知が届いた。
〈死亡に伴う電子証明書の失効処理が完了しました〉
氏名欄には、普段ならあり得ないほど簡潔な二文字だけが残っていた。
〈故人〉