三百人の連絡帳

【午前七時十二分】

〈草薙谷さん、父が薬を飲んだか分かりません〉

【午前七時十四分】

〈訪問看護師へ確認しました。朝食後に服用済みです〉

霞ヶ浦朔礼は、妻・千鶴乃のスマートフォンが鳴るたび舌打ちした。

「近所の老人の世話で忙しいふりをするな。金にもならない連絡係だろ。誰のおかげで飯が食えてる」

千鶴乃は、介護する家族と医療職をつなぐ連絡帳を作っていた。紙の伝言では薬や受診の情報が抜ける。本人の同意を得て、家族、訪問看護、配食、薬局だけが必要な情報を共有できる仕組みにした。

最初は三世帯。半年で三百世帯になった。

朔礼は、妻が一日中チャットをしていると思っていた。

市役所の地域福祉事業説明会で、新しい連携システムの代表が紹介された。

「草薙谷ケアリンク代表、草薙谷千鶴乃さんです」

千鶴乃は介護支援専門員の資格を取り直し、看護師と技術者を雇って会社を設立していた。救急搬送の減少、服薬ミスの防止、介護離職の抑制が評価され、市と五年間・総額二億円の契約が決まった。

朔礼は市職員へ言った。

「妻は家庭で介護経験もない素人です。僕が生活を支えたからできただけで」

壇上の医師が答えた。

「あなたのお母様が退院した際、連絡調整をしたのも千鶴乃さんです。費用を払わず、妻だから当然と処理したのはあなたでしょう」

朔礼の母の記録には、千鶴乃が百二十時間対応した履歴があった。朔礼自身の参加はゼロだった。

その夜、千鶴乃は会社の相談室で離婚届を渡した。

「母さんの連絡は誰がするんだ」

「契約すれば、担当者が行います。家族だから無料、はもう終わり」

千鶴乃の役員報酬、新居、母子の保険はすべて整っていた。朔礼の母も、息子ではなくサービスとの正式契約を選び、自分の年金から料金を払うと決めた。

【午後六時三十分】

〈市との契約、電子署名完了〉

【午後六時三十一分】

〈離婚届提出予約、受付完了〉

二つの通知が並んだ瞬間、朔礼が金にならないと笑った連絡帳は三百世帯を守る公的事業となり、彼だけが妻へ無料で命令を送れる連絡先を失った。