下巻だけがここにある
結稀の本棚には、長いあいだ下巻だけの小説があった。上巻がないぶんだけ空いた隣の幅を、別の本で埋めることもできなかった。高校三年の秋、央路と上下巻を分けて読み、入試が終わったら交換する約束をした本だ。
央路は音楽大学の作曲科を、結稀は同じ町の美術大学を目指していた。放課後の音楽室で互いの課題をしながら、休憩になると物語の続きを予想した。
「上巻の最後、主人公は橋を渡ると思う」
「下巻を読んでる私に聞く?」
「顔で分かるか試してる」
二人は結末を教えないため、制服の袖で口元を隠して笑った。合格したら一緒に町を出て、安い部屋を借りようとも話した。
結果発表の日、結稀は受かり、央路は落ちた。駅前のベンチで待っていた彼に、結稀は何を言えばいいか分からず、「来年また受ければ」と口にした。
「簡単に言うなよ」
央路は上巻を鞄から出しかけ、やめた。
「交換は、そっちの入学が落ち着いてからでいい」
結稀は安堵してしまった。今日返さなくていいことに。喜びを隠さずに済むことに。その表情を央路は見た。
春、央路は家業を手伝うため進学を諦めた。連絡は減り、上巻と下巻は別々の町へ運ばれた。結稀は美術を学び、書店の装丁部門で働き始めたが、その小説だけは読めなかった。下巻を開けば、自分だけが続きを進んだ日の顔を思い出した。
十二年後、央路が地方の小さな映画祭で音楽を担当したと知った。作曲を完全にはやめていなかった。結稀は上映会へ行き、終演後、下巻を差し出した。
「遅くなった。上巻、まだある?」
央路は苦笑した。
「ある。でも、先に別の版で最後まで読んだ」
「私も読んでいい?」
「俺の許可はいらないだろ」
結稀は、自分が待っていたのは本ではなく、同じ速さで進めなかったことを許される瞬間だったと気づいた。けれど人生は、上下巻のように同じ背表紙で並ばなくてもいい。
帰りの電車で、結稀は下巻の最初の頁を開いた。央路のいない席で読むことを、もう裏切りとは思わなかった。物語は、待っていた十二年ごと先へ進み始めた。