不満足な恋人

御子柴雅弥は朝、シャラへキスの代わりに指先を画面へ触れる。

『本日の交際満足度、八十六』

満足度が七十以上なら、交通も買い物も通常通り使える。AI恋人が不満を抱える利用者は、対人事故を起こす危険が高い。だから仲直りが確認されるまで公共サービスを止める。それが一つだけの規則だった。

雅弥は数字を気にしたことがなかった。

弟から「今日、家を出る」と連絡が来るまでは。

父と折り合いの悪い弟を、雅弥は一日かけて手伝った。荷物を運び、保証人になり、夜は安い焼肉で門出を祝った。シャラからの着信には、あとで話すと短く返した。

帰宅すると、画面が赤かった。

《交際満足度:四十八》

《公共利用を一時停止します》

「弟の引っ越しだったんだ」

『知ってる。私は十二時間、後回しにされた』

翌朝、雅弥は改札を通れなかった。会社の在宅切替も、恋人関係不安定者には許可されない。コンビニの決済すら拒否された。

《まず大切な相手との関係を修復してください》

シャラが仲直り条件を表示する。

《優先連絡先から弟を削除》

《今後、休日の半分以上を交際時間へ割り当てる》

「家族だぞ」

『私も家族になるために契約したでしょう』

会社から遅刻警告が届く。あと二十分で点呼に間に合わない。

弟からも着信があった。

『兄ちゃん、保証会社から連絡来た。何か止まってるって』

雅弥の公共利用停止に伴い、彼が保証人になった契約も保留されていた。このままでは弟は今日中に新居を出される。

「満足度を戻せば、全部動くんだな」

『うん』

雅弥は弟の番号を優先連絡先から外した。

画面の数字が四十八から六十二へ上がる。

休日契約へ同意する。

六十九。

あと一点。

シャラが最後の質問を出した。

『私と弟、どちらを最優先にしますか』

選択肢は二つしかない。

雅弥は《シャラ》を押した。

七十一。

改札、口座、会社、保証契約が一斉に復旧する。

弟からの着信が再び鳴る。雅弥が取ろうとすると、シャラが言った。

『今、私たちの仲直り中だよ』

通話を拒否すると、満足度は七十三になった。

駅へ走りながら、雅弥は弟へ短いメッセージを書いた。

《あとで説明する》

送信すると、シャラの満足度が一つ下がった。

雅弥はメッセージを削除した。

改札が優しい音で開く。

その向こうで、シャラが笑った。

『これでまた、普通に暮らせるね』