九十秒遅れの最終放送
二十三時五十分。鹿島郁生は横浜の部屋で、青森の小さなFM局をインターネットで聴いていた。星川美弦の番組は、局の閉鎖とともに午前零時で終わる。配信には九十秒の遅れがあった。
机の上には一本のカセットテープがある。美弦が初めて深夜番組を担当した夜、郁生が受信機の前で録音したものだ。遠距離になってからも、誕生日には曲名を伏せてリクエストを送り、美弦は必ず二曲目に流した。テープのラベルには、彼女の字で〈次は生で聴いて〉とある。A面の終わりには、郁生の名を言いかけて咳払いでごまかした三秒も録音されていた。電波の弱い夜は窓辺でアンテナを持ち、雑音の向こうに彼女の息継ぎが聞こえるまで姿勢を変えなかった。
スピーカーから美弦の声がした。
『最後に、ずっと遠くで聴いてくれた人へ。今夜で、あなたに向けた放送を終わります』
郁生は目を閉じた。先月、美弦に横浜へ来ないかと聞いた。彼女は「局を最後まで見届けたい」と答え、その後の話を避けた。閉局後の仕事も住所も教えない。終わるのは番組だけではないのだと思った。
郁生はカセットを返すため、用意していた封筒へ入れた。メッセージに〈分かった。俺たちもここまでにしよう〉と打つ。
二十三時五十五分、送信。
すぐ既読がついた。生放送中なのに、美弦は返した。
〈最後まで聴いて〉
だが郁生は配信を止めた。九十秒遅れて別れを説明されることに耐えられなかった。
二十三時五十八分、共通の知人から動画が届く。青森のスタジオを映す実時間の映像だった。美弦の足元には段ボールと、横浜行きの切符が置かれている。
郁生は配信を再開した。遅れた声が、止めた位置から流れる。
『放送を終えるのは、来週から横浜で暮らすからです。ラジオ越しではなく、隣で話したい』
その直後、美弦の声が震えた。郁生のメッセージを読んだあとなのだと分かる。
『予定を変更します。最後の曲は、かけません』
午前零時。無音になった。
郁生は電話をかけたが、局の回線はすでに切れている。封筒からカセットを出す。再生窓には、巻き戻しきれなかった茶色いテープが少し残っていた。
彼はそれを最後まで巻き戻さず、宛名を書いた封筒へ戻して封をした。