二列目の老人
新作舞台の初日、劇場には古い木と新しい塗料の匂いが混じっていた。開演を待つ客のざわめきの中、但馬宏一は二列目中央の席を見て顔をしかめた。
「隣を替えてくれ」
案内係の波佐見汀が確認すると、隣席には古いジャケットの老人が一人、開演冊子を読んでいた。
「座席に不備がございますか」
「そうじゃない。写真を撮られたとき、見栄えが悪い」
但馬の会社は公演スポンサーだった。ロビーには社名入りの花が並び、招待券も十枚用意されている。
「満席のため、同等席への変更はできません」
「誰の金で芝居ができると思ってる。あの老人を後ろへ移せばいい」
汀は、すべての観客が指定席の権利を持つと説明した。
但馬は名札を読み上げ、スマートフォンへ記録する。
「波佐見。覚えた。支配人に言って、明日から立たせないようにする」
老人が冊子から顔を上げた。汀が先ほど落とした半券を拾ってくれた人だった。
「私は端でも構いませんよ。若い方を困らせたくない」
「お客様が移動される必要はありません」
汀が答えると、但馬は笑った。
「案内係が正義の味方か。スポンサーを怒らせて公演ごと潰れたら、あんたが責任を取るのか?」
開演五分前、劇場支配人が二列目へ来た。但馬は先回りして汀の無礼を訴え、協賛金を引き揚げると告げた。
「この程度の客も整理できない劇場に、うちの名前は貸せない」
支配人は汀ではなく、隣席の老人へ深く頭を下げた。
「都築先生、お待たせいたしました。初日のご挨拶を」
都築冬悟。今回の脚本家であり、この劇場へ作品の上演権を無償提供してきた財団の理事長だった。顔写真を公表しないため、但馬は気づかなかった。
都築は但馬の社章を見て、支配人へ尋ねた。
「協賛契約には、観客や職員への威圧を禁ずる条項がありましたね」
「はい。即時解除の対象です」
「なら、汀さんが責任を取る必要はありません」
支配人は無線の送信ボタンを押した。
「ロビー映像と開演前アナウンスから、但馬物産の社名を外してください。協賛契約は解除します」