二枚目のルームキー
小さなホテル〈白夜〉の支配人、不破真白は、空白のルームキーを二枚持ち歩く。
深紅の燕尾服に白いスニーカー。予約表を見ながら、銀のカードを指の間で回す。
「鍵は開けるためだけじゃない」
フロント係の水瀬雛子が相談したのは、七〇三号室の客についてだった。若い女性が一人で宿泊し、訪ねてきた婚約者には「もうチェックアウトしたと伝えて」と頼んだのだ。
男性はロビーで声を荒らげ、部屋番号を教えろと迫っている。客は警察沙汰にしたくないという。
「嘘をついて追い返していいでしょうか」
「宿泊の有無を答えない。嘘ではなく守秘だ」
「でも、待ち伏せされたら」
「だから鍵を二枚使う」
真白は一枚目で七〇三号室のカードを無効にし、客に別の階の非常用客室を用意した。移動は従業員通路。もう一枚には、提携する支援窓口とタクシー会社の番号を書いて渡す。
男性には、宿泊者情報を開示できないことだけを繰り返した。扉を叩くと脅した時点で警備を呼び、敷地外へ出てもらった。
「本人は警察を望んでいませんでした」
「望まないことと、選択肢を知らされないことは違う。決めるのは彼女だ」
客は夜明け前、自分で支援窓口へ電話し、別の街へ向かった。出発前、雛子へ『嘘をつかせてごめんなさい』と言ったが、真白は横から『このホテルは何も答えなかっただけです』と訂正した。チェックアウトの署名は震えていたが、行き先欄は空白のまま。真白は尋ねなかった。男性が戻る可能性に備え、翌朝まで入口の記録を取り続けたが、雛子にも客にも見せなかった。恐怖の続きを、守られた側へ報告書として背負わせないためだった。
一晩中フロントに立った雛子は、事件が終わると足が動かなくなった。真白は二枚目の空白カードを彼女へ差し出す。
「これは誰の部屋ですか」
「従業員休憩室。二時間、電話を切って寝ろ」
「まだ引き継ぎが」
「閉めるための鍵もある」
カードは客室へ入る許可証だと思っていた。けれどその夜、鍵は一人になる権利を守り、追う人から扉を閉ざし、働く人を仕事の外へ出した。
真白は残った一枚を指で回す。
「鍵は開けるためだけじゃない。だから二枚持つ。客の分と、バディの分だ」