仮名の赤ん坊
一歳になる前の子どもの本名を親が呼ぶと、呼んだ親の寿命が一か月減る。親以外なら一日で済み、一歳を過ぎれば親も一日になる。そのため家庭では「ちび」「赤ちゃん」「二号」などの仮名を使い、保育所だけが登録名を預かる。
袋井健人は娘が生まれてから、名前を一度も声にしなかった。出生届には袋井百花と書いたが、家では「まる」と呼んだ。頬が丸かったからだ。
動画を撮るときも、カメラへ向かって口だけ動かした。アルバムの表紙には名前を印刷し、音声絵本の登録欄は空白にした。娘の名は家中に書かれているのに、部屋の空気だけが知らなかった。一歳までの日数を、健人は冷蔵庫の磁石で毎朝一つずつ減らした。
妻はときどき、名前を惜しみすぎだと言った。
「一か月でしょ」
「一回ならな。寝かしつけで百回呼んだら八年だ」
健人は寿命を計算する癖があった。百花が成人するとき四十七歳、結婚するとき六十歳。できるだけ先まで残しておきたかった。
生後八か月の夜、娘が高熱を出した。救急車を待つ間に目を閉じ、呼吸が浅くなった。電話口の看護師は、登録名を呼んで反応を見てくださいと言った。
「仮名では駄目ですか」
「意識確認は本名です。親御さんなら一回一か月です」
妻は泣きながら娘の肩を叩いた。健人は口を開いたが、音が出なかった。頭の中で、成人式、就職、知らない誰かとの食卓が一か月ずつ遠ざかる。
娘の唇が紫色になった。
健人は名前を呼んだ。一回。反応はない。二回、三回。六回目で、娘は細く息を吸い、目を開けた。救急車のサイレンが窓の下で止まった。
半年が寿命票から消えた。隊員は記録用紙に「呼名六回、反応あり」と書き、当たり前の手続きのように判を押した。妻は健人の手を握り、「六か月ぶん、覚えておく」と言った。
一歳の誕生日、親の呼名は一回一日に変わる。健人はケーキの前で、初めて落ち着いて娘の名を呼んだ。百花は意味も分からず笑い、木製の文字積み木を口に入れた。
片づけたあと、床に「百」の積み木だけが残った。角には六つの小さな歯形が並び、その溝へ、健人の髪から抜けた一本の白髪が細く挟まっていた。