余白の結婚式
藤乃井梢は、結婚式の前日に元婚約者を削除した。
七年前、梢は別の人と結婚するはずだった。相手は式の一週間前に事故で亡くなった。その後、梢は長く喪に服し、彼の親友だった榛名一成に支えられた。やがて二人は恋人になり、結婚を決めた。
けれど梢は、幸せになるたび罪悪感を覚えた。一成の手を握りながら、亡き人の手を思い出した。新しい指輪を選びながら、古い指輪の重さを比べた。
「記憶を消せば、一成だけを愛せる」
梢がそう言うと、一成は反対した。
「君が彼を愛した時間ごと、今の君なんだ」
それでも梢は施術を受けた。
翌朝、元婚約者の名前も顔も消えていた。だが削除範囲には、彼を介して知り合った一成との最初の三年間も含まれていた。梢は目覚めると、隣にいる花婿を知識としては理解したが、なぜこの人を信頼するようになったのか分からなかった。
式場へ向かう車内で、一成は二人の過去を説明しなかった。
「怖くないの?」
梢が尋ねると、一成はうなずいた。
「怖い。君が今日、僕を選ばないかもしれないから」
祭壇の前で、司式者が誓いを促した。参列者は梢の事情を知らない。誰もが幸福そうに見守っている。
梢は一成の顔を見た。記憶の裏付けはない。それでも、朝から彼は一度も「思い出して」と言わなかった。自分に有利な過去だけを語ることもせず、逃げる選択まで渡してくれた。
「私は、あなたを愛していたそうです」
会場がわずかにざわめいた。
「でも今日は、それを証拠にしません。今ここで、あなたと明日を知りたいと思っています」
一成の目に涙が浮かんだ。
「それで十分です」
二人は誓いを交わした。
披露宴の途中、古い友人が酔って、亡き元婚約者の名前を口にしかけた。一成は止めなかった。梢も耳を塞がなかった。知らない名は胸を刺さなかったが、自分の中に大きな部屋が一つ封鎖されていることだけは感じた。
その夜、梢は新しい日記の最初に書いた。
〈私は忘れることで一成を選んだのではない。忘れたあとにも、選び直せる人を選んだ〉
翌朝、二人は初めて夫婦として目覚めた。
梢には失われた恋の痛みがなかった。代わりに、その痛みを知る一成へ、いつか教えてほしいと頼める余白があった。