停止された録音
地方資料館の音声採集マニュアルには、旧鳥啼トンネルで録音するときの決まりが一つある。
《入口で録音を始めたら、外へ出るまで停止してはいけない》
国東慧太は二十八歳の契約学芸員だった。トンネル内に残る石工の作業歌を記録するため、スマートフォンと小型マイクを持って入った。
18:32 録音開始
18:36 滴水音
18:41 風なし
18:44 遠方に歌声
歌は歌詞にならず、低い母音だけが続いた。慧太が歩く速度に合わせて近づき、止まると止まる。
そのとき、資料館長から着信が入った。録音中のまま通話へ出られない機種だった。緊急連絡かもしれない。慧太は規則を知りながら、一度だけ停止ボタンを押した。
波形が途切れた瞬間、暗闇の奥で何百人もの息継ぎが揃った。
着信は消え、履歴にも残らなかった。慧太はすぐ録音を再開し、出口へ急いだ。背後から歌声が追ったが、外へ出ると止んだ。
資料館でデータを聞くと、停止前の録音は正常だった。再開後には慧太の足音しか入っていない。ただし無音の切れ目に、自動文字起こしが一文を生成していた。
《ここから外ではない》
館長は機器の誤認識だと言い、ファイルを削除した。
翌朝、慧太の録音アプリに八時間分の新規ファイルができていた。題名は《停止後》。録音場所は自宅の寝室。再生すると、眠っている慧太の呼吸と、遠くの作業歌が入っている。
次の夜も、その次の夜も、アプリは勝手に録音した。歌声は日ごとに近づき、五日目にはベッドの下から聞こえた。
慧太はスマートフォンの電源を切った。それでも枕元のスマートスピーカーが録音開始音を鳴らした。
朝、スピーカーの履歴に音声コマンドが残っていた。
03:17 慧太「録音を止めて」
03:17 不明「まだ外へ出ていません」
03:18 慧太「ここは家だ」
03:18 不明「では、出口を開けます」
慧太には話した記憶がない。
履歴の最後には、日常で何度も使う短い応答が記録されていた。
03:19 慧太「はい」
その時刻から、寝室のドアセンサーは《開放中》のままになっている。ドアは閉じているのに、住宅アプリの間取りでは、その先が旧鳥啼トンネルへ続いていた。