公開停止まで十秒
午後十一時五十分。インディーゲームの公開まで十分、江波戸惟人の電話に東雲春香の名前が出た。
「最後の台詞、録り直せる?」
春香は主人公の声優で、半年前まで惟人の恋人だった。別れた理由は、完成版のクレジットから彼女の名前が消えたことだ。
「今さら差し替えたら審査に落ちる」
「追加のギャラはいらない。声だけ、今のにしたい」
「それなら、前のままでいい」
「前の私は、あなたを信じてたから」
惟人は唇を噛んだ。春香の事務所から届いた契約解除メールには、〈私生活上の問題を理由に降板を希望〉とあった。彼は彼女が関係を隠したがっていると思い、名前を外した。春香には、惟人が新しい恋人を起用するため降ろしたと、共同プロデューサーから説明されていた。
十一時五十四分、春香が自宅のマイクで録音を始める。
ゲームの最後、別々の世界へ行く二人が交わす一行。
「また会えたら、そのときはちゃんと選ばせて」
前の音声より、低く静かだった。
「送るね」と春香が言った。「これで仕事も終わり」
ファイルと同時に、開発サーバーの監査通知が届いた。自動バックアップの復旧で、削除されていた変更履歴が見つかったという。
プロデューサーが、春香の事務所メールと惟人の降板通知を同じ端末で作成していた。二人の交際が出資者に知られるのを恐れ、互いが望んだことにして引き離していた。
「今、履歴が出た」
「何の?」
惟人が画面を共有すると、電話の向こうから春香の息を吸う音がした。
「私、降りるなんて言ってない」
「俺も外すなんて言ってない」
十一時五十八分。半年分の誤解は、公開の二分前に解けた。
「止められる?」
「止めたら、配信枠と出資を失う」
「私のために止めてとは言わない」
「じゃあ、何のためならいい」
「惟人が、自分で選ぶため」
残り十秒。公開管理画面には〈予定どおり配信〉と〈公開を中止〉が並ぶ。
「恋人には戻れない」と春香が言った。「でも、私の声を私の名前で残して」
惟人は新しい音声をアップロードし、クレジットへ東雲春香と入力した。自動公開のカウントが三、二、と進む。
一になる直前、彼は〈公開を中止〉を押した。画面から発売日の表示が消え、電話の向こうで春香が初めて泣いた。