共同名義の朝

 株式譲渡の電子署名は、午前九時が期限だった。

 結衣と航は、創業した会社の会議室に二人きりでいた。六年前、友達同士で始めた小さなデザイン事務所は、今日から大手企業の子会社になる。社員八人の雇用は守られ、二人の個人保証も外れる。

 机の中央には、署名待ちのタブレットが一台だけ置かれていた。

「先に押して」

 結衣が言う。

「怖い?」

「仕事だから、確認してるだけ」

「それ、便利だな」

「何が」

「徹夜で差し入れたのも、誕生日を毎年覚えてるのも、全部仕事だからって言える」

 航を好きだと気づいたのは三年前だった。

 言えなかった理由は、社員の生活だった。共同代表同士が付き合い、別れ、経営判断に感情を持ち込めば、困るのは二人だけではない。好きだからこそ、会社から私情を遠ざけた。

 航と二人で深夜のオフィスにいても、帰りのタクシーは別々にした。

「今日で共同代表じゃなくなる」

「役員としては残るよ」

「結衣は半年後に退任する」

「契約に書いてある」

「そのあと、俺たちは何になる?」

 時計は八時四十七分。

 結衣はタブレットを起動した。署名欄の上には、自分と航の名前が横に並んでいる。何千回も見た並びなのに、今日で最後だった。

「友達に戻る」

「戻れる?」

「戻らないと」

「社員のため?」

「仕事だから」

 三度目の言葉は、もう盾にしか聞こえなかった。

 航は署名せず、窓の外を見た。出社してくる社員の姿が、交差点の向こうに小さく見える。

「俺、会社を守るためなら黙れる。でも、会社が理由じゃなくなったあとまで黙るつもりはない」

「何を」

「それを今、言わせる?」

「署名が先」

「結衣らしいな」

 航が指でサインをした。残る欄は結衣だけ。

 結衣は息を整え、署名する。送信完了の表示が出たのは、八時五十六分だった。

 六年間の共同名義が、一つの通知音で過去になる。

「これで仕事は終わり」

 航が言った。

「始業前だけど」

「じゃあ四分だけ、仕事じゃない話をする」

 結衣はタブレットを閉じた。

「仕事だから会ってた」

 一度、言い慣れた嘘を置く。

「でも、仕事じゃなくても会いたい」

 航の返事を待たず、結衣は私用のスマートフォンを開いた。半年後の退任翌日に、会社名の入っていない予定を作る。

 場所は、二人が最初の事業計画を書いたファミリーレストラン。参加者は航一人。

 招待を送ると、向かいの端末が震えた。

 航は承認を押し、社員が会議室へ入ってくる前に、二人分のコーヒーを注文した。