冬を抱く手
王宮の北端にある浴室は、冬になると誰も使わなかった。
湯を運ぶ侍女リスヴァだけが、毎朝そこを通り、隣室で暮らす先代王妃へ足湯を届けた。退位してから十年、訪ねる王族はほとんどいない。老女は窓辺で刺繍をし、湯気を見ると「春の匂いね」と笑った。
その朝、暖房管が凍り、北端の部屋は氷室のようになった。
リスヴァが駆け込むと、先代王妃は寝台で震えていた。唇が青く、指先に感覚がない。火鉢は湿った炭しか残っていない。医務室へ運ぶには、吹雪の中庭を渡らなければならなかった。
王宮の湯守には、一つだけ古い技が伝わる。冷えた人の両手を握り、「その冬をください」と言えば、相手の冷たさを自分へ移せる。ただし、一度渡した体の温もりは二度と戻らない。
少しだけなら、指一本が冷える。全身の冬を引き受ければ、リスヴァは一生、火のそばでも温まらない。
「使ってはいけません」
先代王妃は弱い声で言った。昔、その技で夫を救った湯守が、夏にも毛布を手放せず、三年後に亡くなったという。
「私はもう、十分長く生きたわ」
リスヴァは答えず、老女の手を毛布の中で包んだ。
王宮へ来たばかりのころ、訛りを笑われた彼女へ、先代王妃だけが故郷の言葉で礼を言った。失敗して湯をこぼした日も、叱る代わりに濡れた靴を火鉢で乾かしてくれた。
それは主君の大恩というほどではない。だからこそ忘れられなかった。誰も見ていない場所で受けた小さな親切は、王冠より長く光る。
「春になったら、庭の杏を見に行くのでしょう」
「あなたが車椅子を押してくれるなら」
「では、約束です」
リスヴァは老女の手を強く握った。
「その冬をください」
冷気が腕を駆け上がった。骨の内側へ雪を詰められたように痛み、息が白くなる。先代王妃の頬には、ゆっくり赤みが戻った。
廊下から救援の足音が近づく。
老女は眠りに落ちる直前、リスヴァの指を握り返した。
「温かい手ね」
リスヴァには、その手の温度がもう分からなかった。
救援の侍女が差し出した熱い湯呑みも、燃える火鉢も、彼女の掌には同じ冷たい形でしか触れなかった。