到着口を向く椅子

杏沙は空港の到着ロビーが苦手だった。誰かを迎える場所には、待ち望んだ顔が必要だ。地方支社へ転勤して一年、彼女は帰省のたび出発口だけを使い、到着口では足を速めた。見知らぬ町へ来た自分は、ずっと出発の途中なのだと思っていた。

母から「今度そっちへ行ってみようかな」とメッセージが来ても、忙しいからと断った。電話では、もう町に慣れたと話している。案内するほど町を好きになれていないし、元気に暮らしているふりを近くで見せるのも疲れそうだった。

ある夕方、展望デッキで、折り畳み椅子を背負った旅人に出会った。旅人は滑走路に背を向け、空港ビルの自動扉ばかり見ている。椅子の背には「出発」「途中」「忘れ物」「到着」と四枚の札が下がっていた。

「飛行機、見ないんですか」

杏沙が聞くと、旅人は椅子を半回転させた。

「去るものを見る癖がつくと、来るものを見落とします」

そして杏沙に椅子を貸し、「一便だけ、到着する人のほうを向いて座ってください」と言った。

展望デッキから到着ロビーは見えない。杏沙が指摘すると、旅人は真面目な顔で椅子を畳み、エレベーターへ向かった。課題の場所を間違えたらしい。

二人は一階まで下りた。旅人は到着口の前に椅子を置くと、札を「到着」に替えて座った。誰を待っているのか尋ねても、「まだ知りません」と答える。

やがて扉が開き、出張帰りの会社員、眠る子どもを抱いた父親、花束を振る老婦人が流れ出した。旅人は知らない全員に小さく会釈し、次の便の前に椅子を畳んだ。

「迎える人がいなくても、向きは変えられます」

それだけ残し、今度こそ出発口へ消えた。

杏沙は立ったまま、母とのメッセージ画面を開いた。「また今度ね」のあと、返信していない。空港から自宅まではバスで四十分。狭い部屋だが、窓から山が見える。好きかどうか決められない町でも、朝焼けに染まる稜線だけは見せたい。案内できる場所は一つあった。

次の到着便の案内が点灯する。

杏沙は出発口へ戻らず、「来月の土曜、空港まで迎えに行く」と母へ送った。