削除前のバックアップ

二十三時五十分。相良伊織は共同開発室で、戸張咲和へ送った。

〈零時に共有フォルダを消す。異論があるなら、それまでに〉

未読。

机の中央には、銀色の外付けSSDがある。ラベルは〈ふたり〉。恋人になる前、二人で最初のアプリを作った夜に咲和が貼った。写真も設計図も、喧嘩のあと書けなかった手紙も、全部そこへ入っている。

咲和は今日、競合会社の役員と会っていた。伊織を外せば出資するという相手だ。会議室から出てきた彼女は、何も説明せず、「今夜まで待って」とだけ言った。

二十三時五十三分。未読。

伊織はクラウド管理画面を開く。共有解除を実行すれば、復元鍵は失効する。共同事業も、二人の名で借りた開発室も終わる。

二十三時五十六分、咲和の位置を示す緑の点が消えた。役員との再面談に入ったのだろう。機密保持のため、携帯は受付の遮断袋へ入れられる。伊織も以前、同じ会社を訪ねたから知っていた。

知っていて、未読を返事にした。

二十三時五十八分、〈ふたり〉の同期履歴に新しいファイル名が現れる。

《伊織へ_オフラインメモ》

開こうとするが、アップロード待ちの表示から進まない。

零時まで一分。伊織は削除確認欄へ、指定された文字列を打ち込む。

DELETE OUR SPACE

最後の一文字を入れた瞬間、ファイルが同期された。

〈出資は断った。条件は、あなたを外すことだったから。今夜まで待ってと言ったのは、二人で続ける別の案を持って帰るため。携帯を預けるから、メッセージは読めない。零時五分に戻る〉

作成時刻は二十三時五十一分。届くまで八分かかった。

伊織の送った一文は、まだ未読だ。咲和は拒絶しているのではない。彼の名前を守る会議の中にいる。

管理画面には〈削除を取り消す〉〈完全に削除〉が並ぶ。取り消せば、五分後に咲和が戻る。二人のアプリも、恋も、壊れた場所から続けられるかもしれない。

銀色のSSDのラベルは、端が浮いている。伊織が爪をかけると、裏から古い文字が出た。咲和が最初に書き損じた〈ひとり〉という文字を、〈ふたり〉で上から隠していた。

二十三時五十九分五十九秒。

伊織はラベルを剥がし、〈完全に削除〉を押した。