前髪の幅
佳乃の最後の誕生日の夜、妹の瞳は洗面所の椅子に座った。
翌朝、転職の面接がある。美容院へ行く時間がなく、前髪が目にかかるから切ってほしい、と頼んだ。佳乃は昔から、瞳の髪だけはうまく切れた。中学生のころも、就職活動の前も、失恋して急に短くしたくなった夜も。瞳は美容師には細かく注文できないのに、佳乃には「眉が半分見えるくらい」と平気で言った。佳乃はその曖昧さを毎回、同じ長さへ翻訳してきた。
「病人に刃物持たせる?」
佳乃が言う。
「姉ちゃん、病人になる前から手元怪しかったよ」
「帰って」
「切ってから」
瞳はケープ代わりの古いタオルを首に巻いた。誕生日ケーキの蝋燭を消したばかりで、洗面台には苺の甘い匂いが少し残っている。
佳乃は霧吹きで前髪を湿らせ、細い櫛で下ろした。髪の間から、瞳の眉が見えなくなる。
「どのくらい?」
「面接っぽく」
「分からない」
「信用できそうな幅」
「もっと分からない」
二人の笑い声が鏡に当たった。佳乃は咳をこらえ、中央の一束を指で挟む。眉とまぶたの間。乾くと少し上がるから、切りすぎない。
はさみを縦に入れ、毛先を少しずつ落とす。黒い短い髪がタオルの上に積もった。
洗面台の照明は白すぎて、佳乃の頬の影まで映した。瞳が鏡越しにそこを見たので、佳乃は櫛で視線を遮った。「前を見て」と言うと、瞳は本当に自分の前髪だけを見る顔になった。
瞳は鏡の中で、何度も口を開きかけた。面接が受かったら、春になったら、また切って。どれも言わない。佳乃も、次は美容院へ行けとは言わなかった。
右側が少し重い。櫛でとかし、数本だけ切る。左側は眉尻に沿わせる。瞳がまばたきをするたび、前髪が揺れて長さが変わって見えた。
「動かない」
「目に入った」
「閉じて」
「怖い」
「病人だから?」
「昔から」
佳乃は最後に中央をすいた。濡れた髪が乾いたとき、目にかからないぎりぎりの幅になる。
櫛を一度通し、左右を見比べる。耳の前に落ちた切れ毛を払い、タオルの端を内側へ折る。飛び出していた一本を指でつまむ。
佳乃ははさみを閉じた。