匂いの道を一本

 月岡匡臣の飼う老犬・灯台は、目がほとんど見えない。

 十四年暮らした家の中なら迷わない。玄関から水皿へ七歩、寝床へ十二歩。散歩も匡臣の靴音と匂いを頼りに、ゆっくり歩いた。

 宅配の人が門を開けた朝、灯台は庭から出た。

 すぐ近くにいると思ったが、路地にも公園にも姿がない。匡臣は洋食店の仕込みを止め、店先へ写真を貼った。

「見えないから、遠くへ行けるはずがない」

 そう言うほど、不安が膨らんだ。

 近所の人たちは、灯台が何の匂いを覚えているかを考えた。

 花屋の土、豆屋の焙煎、クリーニング店の石鹸。そして匡臣の店で毎朝煮る、玉葱と鶏のスープ。

「匂いを道にできないかな」

 自治会の女性が言った。

 食べ物を路上へ置くことはせず、匡臣の古いエプロンと、スープを入れた蓋つきの鍋を持って歩いた。風下からゆっくり戻り、角ごとに立ち止まる。

 別の人たちは、灯台がよく休んだ場所を探した。郵便局の植え込み、古い時計店の軒先、今は使われていない公民館。

 公民館の裏で、かすかな爪音がした。

 灯台は勝手口の前に座っていた。

 そこは、亡くなった匡臣の妻が月に一度、町の人へスープを教えていた台所だった。建物の換気扇に、前日の料理教室の匂いが残っていたらしい。

 灯台は玄関を見つけられず、扉の横で待っていた。

「灯台」

 匡臣が声をかけると、犬は顔を上げた。見えてはいなくても、鼻が何度も動く。

 エプロンを近づけると、灯台は匡臣の膝へ額を押しつけた。長い尾が、地面を一度、二度と打った。

 公民館の管理人が鍵を開け、捜索に加わった人々を中へ入れた。

 匡臣は持ってきた鍋を火にかけ直す。玉葱、鶏肉、人参。湯気が上がると、灯台は台所の隅へ伏せ、安心したように息を吐いた。

 妻の料理教室へ通っていた人が、昔の話を始めた。誰かが食器を出し、誰かがパンを買ってきた。

「しばらく、ここでスープの日を復活させませんか」

 管理人の提案に、匡臣はすぐ答えられなかった。

 灯台の背を撫でる。温かな毛から、土と古い木戸の匂いがした。

「月に一度なら」

 そう言うと、皆が静かにうなずいた。

 翌月、公民館の台所にはまた湯気が立った。

 灯台は新しいハーネスをつけ、入口近くの毛布で眠っている。

 匡臣が鍋の蓋を開けると、玉葱の甘い香りが部屋へ広がった。それは迷った犬を家へ戻した匂いであり、離れていた人々を同じ食卓へ導く、一本の見えない道でもあった。