匿名の初恋市場
櫛田直央は、「自分が愛される記憶」を買った。
三十二歳まで恋人ができず、婚活AIからは自己肯定感不足と診断された。他人の視点で自分が大切にされる体験を一度入れれば、表情と会話が自然になるという。
商品は匿名だった。再生すると、誰かの目が会社の給湯室にいる直央を追っていた。髪を結び直す仕草、苦いコーヒーを飲んで顔をしかめる瞬間、会議で誰にも聞かれなかった意見を小声でメモする姿。その人は、直央が気づかない小さなところを何年も見ていた。
直央は初めて、自分を少し好きになった。
同時に、売り手を知りたくなった。記憶の背景から社内の配置を調べると、視点の主は窓際の席にいた無口な同僚だと分かった。
彼は半年前に退職していた。直央が結婚したという誤った噂を聞き、片思いを整理するため記憶を売ったらしい。
市場規約では、購入者から売り手への接触は禁止されていた。記憶は感情の証拠ではあっても、現在の同意ではないからだ。
直央は何度もメッセージを書いて消した。自分が見たのは、彼の最も無防備な秘密だった。好かれていたからといって、会いに行く権利まで買ったわけではない。
一年後、駅前の本屋で偶然、その同僚と再会した。彼は直央を見ると、丁寧に会釈しただけだった。記憶を売ったため、なぜ彼女を避けていたのかも曖昧らしい。
直央は購入のことを告げなかった。「この作家、好きなんですか」と、彼が持つ本について尋ねた。
二人は喫茶店へ行った。会話は途切れ、好みは驚くほど合わなかった。彼は甘いコーヒーを飲み、直央の冗談ではほとんど笑わなかった。
それでも帰り際、彼は「また話したい」と言った。
半年後、直央は記憶商品を削除した。愛された自分を忘れるのは怖かったが、目の前の彼を、過去の視線と比べ続けたくなかった。
初めて手をつないだ日、彼の掌は、買った記憶の中より汗ばんでいた。
その不格好で確かな温度こそ、誰にも売られていない二人の始まりだった。