匿名希望の列

久保寺伶は、寄付者二千人分の礼状を印刷する直前に、プリンターの電源を切った。

翌日から産休に入る松浦瑞樹が、最後に引き継いだ年次報告の発送だった。宛名データは完成し、封入業者の集荷まで三十分しかない。

試し刷りの一枚に、見覚えのある会社名があった。寄付者一覧では〈匿名希望〉のはずだ。伶が元データを開くと、公開名の列は空白だが、宛名列には本名が残っている。差し込み印刷は公開名が空なら宛名を使う設定だった。

瑞樹は青ざめ、「匿名の人だけ私が毎年消してた」と言った。ディレクターは「外向けの名簿じゃない。本人の家へ届くだけ」と印刷再開を求めた。だが封筒の窓から名前が見え、家族や同僚に寄付先を知られたくない人もいる。

伶は印刷を中止し、同意区分を三つに分けた。報告書へ掲載可、郵送宛名のみ可、団体名も含め完全匿名。後輩には「空白を許可だと思わないで。何を望んだ空白か確認しよう」と伝え、原本の申込書と照合した。

一覧には、病気の家族を支える団体へ寄付した人や、勤務先に知られず活動を応援する人もいた。名前が一度印刷されれば、回収しても見なかったことにはできない。伶は印刷待ちのデータを削除し、プリンターの履歴まで消去したことを二人で確認し、確認記録には実名を残さず、登録番号だけを使うことにした。封筒の見本も保存した。

集荷には間に合わなかったが、翌朝便へ変更できた。匿名希望者の封筒には個人名を出さず、登録番号だけを印字した。

瑞樹は自分で作った削除用の小さなマクロを伶へ送ろうとした。

「毎年これを動かせば大丈夫」

伶は受け取らず、同意区分を必須入力にする改修依頼を起票した。ディレクターはため息をつき、「こういう細かい管理も、明日から瑞樹さんの代わりに」と言った。

伶は発送完了報告と同時に、情報管理委員会の社内公募を開いた。誰かが毎年こっそり消す仕事ではなく、最初から漏れない仕組みを担当したかった。

事故未然報告を添え、応募を送信した。