十分前の砂時計
鐘楼の歯車が折れた瞬間、シェーナの目の前でユルが足場から消えた。
下から鈍い音がした。叫び声は出なかった。
朝の点検で、シェーナは金具の細い亀裂を見つけていた。交換を頼めば祭りの鐘が遅れる。責任者に嫌な顔をされるのが怖くて、「次の点検まで持つ」と記録へ書いた。ユルはその署名を信じて足場へ上った。
事故ではない。自分が選んだ十分の先にある死だった。
鐘楼の裏階段には、事故の直後だけ現れる小さな店があると聞いたことがあった。シェーナが血のついた手で扉を押すと、棚いっぱいに砂時計が並んでいた。
「十分前へ戻してください」
店主は赤い砂の時計を一本出した。
「これを返せば十分戻る。代金は、あなたが十歳だった頃の記憶を一つ」
十歳の記憶は多くなかった。市場で迷子になった日。誕生日に靴をもらった朝。母に初めて叱られず嘘を見抜かれた夕方。
その中で最も鮮やかな、父に泳ぎを教わった夏の日が浮かんだ。
シェーナは水が怖くて、川岸から離れられなかった。父は先に深みへ立ち、「沈んだら抱く。だから一度だけ手を離せ」と言った。あの日初めて、自分の体が水に浮くと知った。
父は翌年亡くなった。声をはっきり思い出せる記憶は、それしかない。水が怖いままでも生活はできる、と言うシェーナに、父は「怖いことと、できないことを同じにするな」と笑った。今朝、金具の亀裂を報告できなかった彼女が、いちばん忘れてはいけない言葉だった。
「別の年では」
「十分には、十歳の一日」
床の向こうで、誰かがユルの名を叫んでいる。あと十分あれば、折れかけた金具に気づけた。上らせずに済んだ。
シェーナは砂時計を握った。
川面の光が赤い砂へ吸われる。父の腕が遠のく。水に浮いた驚きも、「手を離せ」という声も、底へ沈んで見えなくなった。
砂時計を返す。
赤い砂が上へ落ちた。
世界が鐘の音ごと裏返る。
シェーナは十分前の足場に立っていた。ユルが笑いながら梯子へ足をかける。
「先に上るぞ」
父の声はもう思い出せない。
それでもシェーナの手は、沈む人を抱く速さでユルの腕をつかんだ。