午前一時の麦茶
皐良の同居人、叶歩は深夜のファミリーレストランで働いている。帰宅は午前一時すぎ。皐良は朝が早いので、本来なら顔を合わせない生活だった。
夏のある夜、暑くて眠れず、皐良は台所で麦茶を飲んでいた。冷蔵庫の扉を閉めても、青い闇の中にグラスの水滴だけが光る。叶歩が朝に作った麦茶は少し濃く、焙煎した大麦の香りがした。
一時十分。まだ帰らない。待つ約束はしていないのに、皐良は二つ目のグラスを冷凍庫へ入れた。帰ってきたとき冷えているように。ただし凍る前に取り出さなければならない。それが起きている理由になった。
一時二十二分、階段を上がる疲れた足音がした。叶歩は鍵を開けるなり、「暑い」と言い、制服の襟を引っ張った。
「麦茶あるよ」
「神」
冷凍庫のグラスは薄く霜をまとい、注いだ麦茶が小さく鳴った。二人は灯を点けず、冷蔵庫の明かりを少し借りて飲んだ。叶歩は最後の客が苺パフェを三つ頼んだ話をし、皐良は明日の会議が嫌だという話をした。
話し終えるころ、グラスの水滴が卓上に丸い跡を作っていた。叶歩は布巾で拭き、「先に寝てていいのに」と言う。
「暑かっただけ」
皐良は空のグラスを流しへ置いた。夜風はまだぬるい。それでも麦茶の香ばしさと、帰宅した人のほどけた声が部屋に残り、眠れなかった夜は、少しだけ涼しい理由を得ていた。
叶歩がシャワーを浴びるあいだ、皐良は新しい麦茶のパックを水差しへ沈めた。透明な水に茶色がゆっくり広がる。明日の夜には、また叶歩がこれを飲み、明後日の朝には皐良が残りを飲む。生活時間の違う二人が、同じ香りを順番に受け取っていた。寝室へ戻ると、外で始発前の道路清掃車が遠く鳴った。皐良の指先には冷たいグラスの感触が残り、今度はすぐ眠れそうだった。
水差しの底で袋がゆらりと動く。朝までの数時間を使い、何も急がず、二人分の色と香りを水へ渡していた。
冷蔵庫の灯が消え、台所は静かな藍色へ戻った。