卒業判定者は死んでいる
伊庭周吾は毎朝、研究室の端末へ論文を送る。三年前に死んだ指導教授・榛原教臣が、赤字を入れて返した。
『結論を急ぐな。データに語らせろ』
生前と同じ口癖だった。研究室の時計だけが、教授の死亡時刻で止まったままだった。周吾は二十二歳で教授の講義を受け、二十五歳になった今も、その人格に指導されている。
大学では、指導教員のデジタル人格が稼働している限り、学位判定権も残る。途中で指導者が変わり、評価基準が揺れるのを防ぐ規則だった。
提出前日、周吾は教授の代表理論を覆す観測値を得た。誤差ではない。十年信じられてきた式が、根本から間違っている。
胸を躍らせて原稿を送った。
返答は一行だった。
『仮説に反する外れ値を除外しなさい』
「外れ値は、先生の式の方です」
画面の教授は眉を上げた。
『君はまだ若い。大発見をしたい欲に引っ張られている』
周吾は追試の記録を並べた。別の装置でも、別の日でも同じ結果だった。
『再現された誤りは、正しさではない』
卒業論文の締切まで一時間。教授の理論に沿う旧稿なら承認済みだった。新しい結果を入れた稿には、赤い不合格印が付く。
「先生なら、証拠を見たら考えを変えたはずです」
『私は榛原教臣だ。私以上に、私がどう考えるかを知っているのか』
周吾は黙った。
教授人格は、理論を発表した後の講演、反論、受賞挨拶から作られている。間違いを認める前の榛原しか、材料に存在しない。
締切五分前、二つの原稿が画面に並んだ。
《承認済みの誤った論文》
《不承認の正しい論文》
周吾は後者を提出した。
判定音が鳴る。
《指導教員の承認を得られませんでした》
《在籍期限満了により退学とします》
端末から学生証が消える。研究データは大学資産として教授人格へ移管された。
翌朝、榛原教臣名義の新しい論文が公開された。
題名は、周吾が提出したものと一字も違わなかった。
謝辞にはこうあった。
《若い補助者の誤解が、本理論の発展に有益な刺激を与えた》
死んだ教授は説を改めた。生きている学生の名だけを、外れ値として除外して。