卵の糸を切らずに
真壁奏乃が社内相談窓口の画面を開いたのは、午前一時半だった。
送信ボタンの上で、指が止まっている。
部長から受けたことを文章にするだけで、十八行になった。肩へ触れられた回数。二人きりの会議室へ呼ばれた時刻。断ったあとの担当変更。どれも記録はある。それでも送れば、繁忙期の部署へ調査が入り、同僚の予定まで止まる。
迷惑をかける人になることが、被害を受けたことより怖かった。
部署のチャットには、今月を乗り切ろうという言葉が並んでいる。奏乃が申告すれば、その「みんな」の中から自分だけが抜け、仕事を止めた原因として残る気がした。
給湯室から戻った後輩が、卵のスープを一杯だけ机へ置いた。残業中に何か作る人ではない。奏乃が昼から何も食べていないことに気づき、コンロの小鍋で急いで作ったらしい。
「冷める前に」
後輩はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
白い湯気の下で、卵が細い糸のようにつながっている。スプーンを入れると、柔らかな帯が切れずについてきた。奏乃は口へ運び、また画面を見る。
文章の中には後輩の名前もあった。部長に会議室へ呼ばれた奏乃を、資料の確認という口実で迎えに来てくれた日。その行動まで書けば、後輩も事情聴取を受ける。
奏乃は名前を消そうとした。
そのとき、器の縁に卵の糸が一本かかった。切ろうとスプーンを引くほど伸び、最後には器の中と外をつないだまま止まった。
後輩は画面を見ていない。けれど自分のデスクから、黙って社員証を外し、奏乃の机へ置いた。事情聴取に応じる意思を示すように、写真面を上へ向けて。
奏乃は卵を切らず、そのまま食べた。
最後の一口だけを残し、相談文へ後輩の名前を戻した。ただし「巻き込んだ同僚」ではなく、「その場から離れるのを助けた目撃者」と書き換える。
送信ボタンを押す。
受付番号が表示されてから、奏乃は残していた一口を飲んだ。器の底に卵は残らなかった。
空の器を後輩の机へ返すと、後輩は社員証を首へ戻した。慰めも、大丈夫という保証もない。ただ、洗うための器を受け取り、相談窓口から届いた自動返信を一緒に見た。
二人のモニターに同じ受付番号が光り、空の器には、切れた卵の糸が一本も残っていなかった。