取り壊し前の社食

取り壊し前の本社ビルは、元社員に一日だけ開放されていた。

 由良が社食の窓際に座っていると、紙コップを二つ持った宗介が向かいに立った。

「ブラックだったよね」

「覚えてない」

 本当は、砂糖を一つ入れることまで覚えていた。

 閉館まで二十分。夕方の社食には、撤去を待つ椅子と二人しかいない。

 六年前、宗介は社外秘資料を持ち出したとして契約を切られた。実際に資料を私用メールへ送ったのは由良だった。自宅で修正するためで、悪意はなかった。けれど送信に使った端末を直前まで宗介が借りており、アクセス記録だけが彼を指した。

 由良は試用期間中だった。言えば採用取消になると思い、黙った。

 二人の交際も、その日で終わった。

「この席、よく使ってた」

「覚えてない」

「便利だね、その答え」

 宗介は笑わなかった。

 由良が好きだと言えない理由は、一つしかない。彼を失ったことより、自分を守った過去を先に差し出さなければ、その言葉はまた自分のためになる。

「今、何してるの」

「小さい会社で経理。そっちは?」

「監査の仕事」

「似合う」

「皮肉?」

「違う」

 館内放送が、十五分後の閉館を告げる。宗介は紙コップに砂糖を一袋入れ、由良の前へ置いた。

「俺が辞めたあと、訂正した?」

「してない」

「そう」

「何度も書いた。でも送れなかった」

「今は?」

 由良は鞄から封筒を出した。今日ここへ来る前、当時の上司宛てに作った手紙だった。法的な意味はもうない。誰の処分も戻らない。ただ、自分の署名だけがある。

「今さら送っても、宗介のためにはならない」

「じゃあ、誰のため?」

「私が忘れたふりをやめるため」

 閉館まで五分。警備員が遠くの照明を消し始めた。

「覚えてない」

 三度目を言いかけ、由良は封筒をテーブルに置いた。

「嘘。あなたの顔も、最後に言われたことも、ずっと覚えてる」

「何て言った?」

「もう連絡しないで、って」

「それも覚えてたんだ」

 由良はうなずいた。好きだとは言わなかった。許してとも言わなかった。

 代わりに、封筒の横へ自分の名刺を置く。宗介が取らなくても、追わないつもりだった。

 閉館のベルが鳴り、由良は先に立った。出口まで歩いて振り返ると、宗介は封筒を手にしていた。名刺は見えなかった。

 ビルの外へ出たところで、スマートフォンが震えた。

『砂糖、一つ。そこは変わってない』

 登録のない番号だった。

 由良は返信せず、まずその番号を連絡先に保存した。