受話器の向こうの礼

鶴見花歩警部補は、逢坂泰生が礼を言う男ではないと知っていた。

泰生は盗品市場の値段を県警へ流す情報屋で、助けられても「貸しが増えた」としか言わない。その彼が最後の通報で、震える声を出した。

――娘を守ってくれて、ありがとう。

泰生に娘はいない。花歩には、小学一年生の娘がいる。二人は以前、脅迫下で電話するときの符丁を決めていた。「娘」は、警察しか知らない家族情報を相手が持っている、という意味だった。

報告書作成室で、花歩は通話の続きを再生した。

――紫のランドセル、似合ってた。火曜は四時十五分に一人になるんだな。

それは警察官家族の安全調査票にしか書いていない。学校名、下校経路、学童を利用しない曜日。泰生の背後で、覆面車の集中ドアロック音が鳴った。

組織犯罪対策課長は向かいの椅子に座り、表情を変えなかった。

「泰生が娘を尾行したんだ。情報屋は刑事の弱みも売る」

「安全調査票の閲覧履歴があります」

花歩は端末を回した。通報の二時間前、課長の職員証で彼女の家族ファイルが開かれている。目的欄は空白だった。

「部下の安全確認だ」

「娘のランドセルの色まで必要ですか」

「偶然見たんだろう。お前が泰生を信用しすぎた結果だ」

通話の末尾で、泰生は一度だけ小さく笑った。

――花歩さん、俺を助けに来るな。来た警察官の車を見ろ。お宅の課長と同じ傷が、左のドアにある。

花歩は昨夜の庁舎駐車場記録を開いた。課長の覆面車は無断で三時間出庫し、戻った左後部ドアには新しい擦過傷があった。使用簿は未記載。これだけで泰生に何が起きたかは証明できない。だが家族情報を材料に、彼へ虚偽の連絡をさせた疑いは消せなかった。

課長は声を落とした。

「提出すれば娘も署内にいられなくなる。転校させることになるぞ。家族を守るのも警察官の責任だ」

花歩は一瞬、紫のランドセルを思った。守るために黙れば、次にその色を使って脅される。

彼女は家族ファイルの閲覧履歴、車両出庫記録、通報原音を外部保全資料へ添付した。課長の机へ安全調査票の写しを置き、閲覧者欄を赤線で囲む。

その上に娘の写真を伏せて、花歩は送信キーを押した。