名前のない鉢
史帆は、名前のつかないものが苦手だった。業務なら担当、期限、完成形。人間関係なら友人、恋人、同僚。曖昧なまま進むと、どこに立てばいいかわからない。
オフィス移転で同じチームになった室生槙子は、無口なデータ分析担当だった。話しかければ答えるが、必要なことしか言わない。彼女の机には、札のない小さな鉢植えがあった。丸い葉が三枚だけ出ている。
「何の植物ですか」
史帆が聞くと、槙子は首を傾げ、鉢を差し出した。底に折った紙が挟まっている。
『一週間、名前を調べずに水をやる』
「枯らしたら困りません?」
槙子は指で土を触り、乾いたときだけ、という仕草をした。育て方も名前も教えない。
わからないものを見ると、史帆はすぐ検索した。答えが出れば安心し、分類できないものからは距離を取った。以前、内容の固まっていない仕事を断ったあと、別の同僚たちが試行錯誤しながら形にする姿を遠くから見たことがある。失敗を避けたはずなのに、自分だけ入口に残った感じがした。
史帆は毎朝、鉢の土を確かめた。検索アプリで写真を撮ればすぐ種類が出る。けれど課題は一週間だけだ。三日目に新しい芽が見えた。名前がなくても、葉は増える。
同じ週、部署で試験的なプロジェクトの参加者が募集された。目的は「顧客行動の新しい見方を探す」。期間も成果物も仮。史帆は説明会で、担当範囲が決まっていないことを質問した。
「集まった人で決めます」と責任者は言った。
曖昧すぎる。いつもの史帆なら、要件が固まるまで参加しない。失敗したとき、何が悪かったかさえ説明できないからだ。
七日目、鉢には四枚目の葉が開いていた。槙子は取り返そうとせず、ただ空いた窓辺を指した。置く場所も史帆に任せるらしい。
史帆は植物検索を開きかけ、閉じた。社内募集の画面へ移る。「希望する役割」の欄は必須だった。
彼女はそこに「まだ決めていません。参加してから見つけます」と書き、鉢を名前のないまま自分の窓辺へ置いた。