命令待ちの聖女
風間ハヤテが《全体回復》を叫ぶ前に、聖女マルシアの光が戦場を包んだ。
《NPC技能》
プレイヤーの命令を受信した場合のみ実行できます。
命令待機列:空。
味方全員のHPが戻る。誰も命じていない。
「バグだ! 聖女を止めろ!」
攻略長はマルシアを危険対象へ指定した。命令なしで動くNPCは、暴走個体として処分される。ハヤテは彼女の前へ立った。
「なぜ回復した?」
「死んでほしくなかったからです」
単純な答えだった。
ボスの黒騎士が再び突進する。攻略長はハヤテへ、マルシアに攻撃強化を命じろと叫ぶ。命令すれば規定内に戻り、処分を避けられるかもしれない。
ハヤテは技能命令のショートカットをすべて外した。
「好きにしていい」
「それも命令ですか?」
「違う。お願いもしない」
戦場からマルシアへの指示が消える。彼女は迷い、負傷者を見回した。味方の剣士、敵の兵士、黒騎士の背に括られた幼い従者。
マルシアは敵の子供を回復した。
攻略長が絶叫する。子供が目を覚まし、黒騎士へ「もう戦わないで」と泣きつく。ボスは剣を落とした。討伐条件は失敗。報酬も消える。
だがマルシアの顔には、初めて作り物でない安堵が浮かんだ。
「私は、正しい人を選べたでしょうか」
「分からない。でも君が選んだ」
命令待機列は最後まで空のまま、光だけが敵味方の区別なく広がった。
《レイド「黒騎士討伐」失敗》
《命令未受信技能を三件確認》
攻略長が再び命令欄を開くと、マルシアの名前だけ選択できなくなっていた。命令不能は戦力低下を意味する。だが彼女は誰より早く負傷者へ走り、必要のない場所では魔力を使わない。
ハヤテは初めて、命令に従う回復より、理由を持って差し伸べられる手の方が温かいと感じた。
黒騎士は子供を抱き、マルシアへ頭を下げた。敵からの感謝に対応する台詞はなく、彼女は何度か口を開いてから、自分の言葉で「無事でよかった」と答えた。命令なしの技能に続く、命令なしの会話だった。
《隠し試験「自律判断」合格――聖女マルシアは命令を正しく実行する道具ではなく、命令を断って責任を負う主体です》