圏外にした現在地
花房紫苑は、徒歩配信で過疎集落を巡っていた。行き先を決めるのは視聴者の投票。今回選ばれたのは、地図から消えた「戸無し」という村だった。
林道入口で拾った古い案内板には、QRコードが貼られていた。読み取ると、位置情報付き配信の注意が一行だけ表示された。
《配信開始後、「戸無し」と表示されても、位置情報を切ってはいけない》
配信地図には、紫苑の青い点の後ろを同じ速度で進む灰色の点があった。凡例にはない。視聴者が指摘するたび、その点は少し近づいた。紫苑は現在地共有をオンにして歩き始めた。地図には山林しかない。だが一時間後、配信画面の地名表示が「戸無し」に変わった。
コメント欄がざわつく。
《住所バレるぞ》
《後ろの家、表札に花房ってある》
《位置切ったほうがいい》
杉林の間に、玄関だけの家が並んでいた。壁も屋根もなく、戸口だけが土へ立っている。一枚の表札に「花房」とあった。
紫苑は怖くなり、位置情報を一度だけオフにした。
灰色の点が青い点と重なり、位置情報の利用者が《二名》になった。地名表示は消えた。代わりに全ての戸が同時に開いた。中は暗闇ではなく、紫苑の自宅の各部屋へつながっていた。寝室、台所、風呂場。そのどれにも、帰宅を待つように靴が一足置かれている。
紫苑は配信を切って林道を走った。朝になり、見慣れた国道へ出た。警察へ説明したが、戸無しという地名は記録にないと言われた。
町のホテルで眠り、昼にスマホを確認する。フードデリバリーの注文完了通知が来ていた。
【配達先:戸無し字花房家跡】
【受取人:花房紫苑(帰宅済み)】
注文品:一人分の夕食
キャンセルを押すと、《受取済みのため変更できません》と出た。
直後、自宅の見守りカメラから通知が届いた。
【家族が食卓に着きました】
映像には壁も屋根もない山中の食卓が映っていた。空いた椅子の背に、紫苑の上着が掛かっている。
配達員から短いメッセージが来た。
《戸は開けておきました》