土偶の左目
ケネブは土偶の左目から青石を抜いた。
河神をかたどった土偶は、両手で腹を抱え、笑っている。左右の目には青い石がはめられていた。西の水門を開くときは左目、東なら右目を外す。文字を読めぬ水番にも伝わる古い合図だった。
「敵も知っています」
若い水番ネメルが言った。
「知っている者を、昨日わざと逃がした」
河城から退く兵と民は七百。西の高道を通り、上流の石砦へ向かっている。追うサフラ軍は東岸から渡河点を探していた。水門を一つ開けば、片側の低地だけを泥海にできる。
左目のない土偶を敵に見せれば、西門を開くと思う。神を信じぬ敵でも、神を使って働く人間の習慣は信じる。サフラは水を避け、東の乾いた堤へ全軍を寄せるはずだ。実際に開くのは東門。敵を流すためではない。東堤を泥にして、騎馬の追撃を止める。
「土偶をどこへ置きます」
「神殿の机だ。逃げる途中で忘れたようにな」
「青石は」
ケネブは左目の石を口へ入れ、飲み込んだ。
ネメルが顔をしかめる。
「死者の腹から見つかれば、偽装と分かる」
「生きて戻れば腹は開かれん」
二人は無人の神殿を出た。土偶だけが灯明の前で笑っている。外では最後の荷車が西高道へ上がり、車輪の跡を葦束で消していた。
ほどなく敵の斥候が神殿へ入った。松明の影が壁を走る。土偶を掲げた兵が、東岸へ向かって叫ぶ。意味までは聞こえない。だがサフラ軍の旗が一斉に東堤へ移り始めた。
「読みました」とネメル。
「まだだ。読むことと、信じることは違う」
敵将は東堤の手前で止まった。偽装を疑っている。ケネブは西水門の綱へ一人の水番を立たせ、わざと敵から見えるように松明を持たせた。左目の合図と西門の人影。二つが同じ答えを示せば、疑いは欲に変わる。安全だと思った土地ほど、軍勢は深く踏み込む。
サフラの騎兵が東堤へ殺到した。
西高道の最後尾から、ネメルの母が手を振る。七百が石砦の影へ消えた。
ケネブは水門楼へ登り、右側の青銅輪を握った。
「東の鎖を落とせ」
命令と同時に、東水門が轟音を立てて開いた。