塩むすびの白
倉持依織が地域の相談窓口で弁当を開くと、塩むすびが二個入っていた。母は具を入れたつもりだったらしい。朝、「一つは梅、一つは昆布」と念を押していた。
五十八歳の母は、最近よく物を忘れる。鍋を火にかけたこと、同じ話をしたこと、娘がもう学生ではないこと。検査を勧めても怒るので、依織は一人で介護サービスの相談へ来た。母には、仕事の打ち合わせだと伝えてある。
勝手に話を進めることが、母の自尊心を奪うのではないか。けれど何もしないまま事故が起きれば、自分を許せない。娘のふりをして監視する人になり始めていることを、誰にも言えなかった。
一個目を割る。中は真っ白だった。炊いた米の香りがし、指へ触れる表面はまだ温かい。塩は片側に偏り、最初のひと口だけが強くしょっぱかった。母は昔、むすびを握るのが上手だった。三角の角まで同じ固さで、具は必ず真ん中にあった。
依織は、塩の薄い側と濃い側を交互に食べた。味の違う部分を混ぜれば、ひとつとして食べられる。忘れた母と、覚えている母を別人にしなくてもいいのかもしれない。
二個目も中は空だった。依織は半分まで食べ、残りを包み直した。母へ見せて間違いを責めるためではない。帰宅後、「梅はどこへ行ったんだろう」と一緒に冷蔵庫を探すために残した。
相談申込書の「家族の同意」の欄で手が止まる。依織は今日、正式な契約はしないと伝えた。まず訪問相談だけを頼む。母の知らない場所で、母の暮らしを全部決めないためだった。
包みの中の半分は、帰るころには冷たくなるだろう。それでも、真っ白な断面を隠さず持ち帰る。
依織は、母の忘れものを数えるたび、失われた人を探していた。けれど今朝の母は、空のむすびを二個握り、娘の鞄へ入れた。具を忘れても、娘に食べさせたい手つきまでは消えていない。その手を守ることと、何でも任せることは同じではなかった。
母が忘れた具を、依織が嘘で埋める必要はなかった。