墨の凍る誓紙

北楼の机に、誓紙が一枚置かれていた。

姜武玄は紙の端を持ち上げた。墨の字は白い霜をかぶり、折れば細かく割れそうだった。

敵が捕らえている書記官・白蘭珠の署名がある。こちらが返すのは敵の騎将・尹泰弼。誓紙には、夜明け前に箭門で二人を交換し、互いに矢を放たぬと書かれていた。

敵使は言った。

「蘭珠殿が、つい先ほど自ら書いた」

「この寒さの中でか」

「火鉢を置いた」

武玄は署名へ指を当てた。墨は凍っている。

蘭珠は冬の公文を書く時、墨へ一つまみの塩を混ぜる。北楼で育った者なら誰でも知る。塩墨は零下でもすぐには凍らず、紙へ深く染みる。敵が用いた普通の墨は表面で凍り、字の縁が盛り上がっていた。

署名は偽物だ。

「本人を見せろ」

「交換まで見せぬ約束だ」

「なら騎将も返さぬ」

尹泰弼は柱へ縛られたまま、鼻で笑った。

「女一人の筆癖で、夜明けを捨てるか」

「筆癖ではない。墨だ」

武玄は誓紙を火鉢へ近づけた。凍った文字が溶け、偽の署名だけが黒い滴になって流れる。本文は古い塩墨で書かれており、紙へ染みて崩れない。

敵は以前の文書へ、署名だけを書き足したのだ。

使者の喉が動いた。

蘭珠が死んでいるのか、別の砦にいるのかは分からない。ただ、今夜この誓紙へ署名していないことだけは確かだった。

「夜明けまで半刻だ」と使者が言う。「交換を逃せば、次はない」

「困るのは騎兵を指揮できぬ方だ」

尹泰弼のいない敵騎馬は、三度の夜襲で同士討ちを起こしている。向こうも時間を失えない。

武玄は新しい紙と硯を出した。

「蘭珠を箭門へ連れてこい。ここで同じ文を書かせる。墨は本人に磨らせろ」

使者は拒んだ。武玄は騎将の縄を門楼の梁へ掛け、椅子を蹴る準備をさせた。声は荒げない。怒声は値を下げる。

やがて雪の向こうから橇が来た。

白蘭珠は両手を鎖で繋がれ、唇を切っていた。だが机へ座ると、自分で墨を磨り、敵使の前で塩を一つまみ落とした。

「寒いところで育った女を騙すなら、春まで待つべきでした」

彼女は同じ誓文を書き、署名した。新しい墨は凍らず、紙の繊維へ静かに沈んだ。

双方の人質が箭門前へ出される。蘭珠と尹泰弼は雪上ですれ違い、それぞれの陣へ戻った。

敵使は偽の誓紙を拾おうとした。武玄は先に火鉢へ投げた。霜をかぶった署名が縮れ、灰になる。

蘭珠が内側へ入るまで、武玄は新しい誓紙を掲げていた。

「箭門を開けろ」

鉄格子が持ち上がり、凍らない墨の下を兵が通った。