壁の中の三十年便

実家を解体する前日、娘は母の部屋の壁から大量の絵を見つけた。

花、駅、眠る子ども。

母は若い頃、画家を目指したが、結婚後に筆を置いたと聞いている。

娘は、自分が生まれたため母が夢を諦めたと思った。

その思いから、自分の子どもには美術学校を勧め続けていた。

本人は料理を学びたいと言うのに、

「才能を無駄にしないで」

と聞かなかった。

解体業者が、壁の柱へ古い封筒を見つけた。

説明書には、

「壊される家の壁へ手紙を封じると、同じ壁の三十年前へ届く」

とある。

娘は若い母へ書いた。

「絵をやめないで。

私のために夢を捨てないで。

未来の私は、あなたの後悔を子どもへ背負わせています」

封筒を壁の隙間へ入れた。

翌朝、同じ場所から黄ばんだ返事が出てきた。

三十年前の母の字。

「未来の娘へ。

私は昨日、展覧会への出品を断りました。

育児のため、と人には言いました。

半分は本当です。

もう半分は、絵を評価される生活に疲れたからです」

娘は何度も読み返した。

母は続ける。

「あなたが生まれたことで、やめる理由を美しくできました。

それは私の弱さで、あなたの責任ではありません。

ただ、絵が嫌いになったわけでもない。

誰にも見せず描くのが、今はいちばん楽しい」

壁から見つかった絵は、捨てた夢の残骸ではなかった。

母が人に評価されない場所で、長く続けた時間だった。

娘はもう一通書く。

「では、なぜ絵を隠したの。

私は一枚も見せてもらえなかった」

返事。

「見せれば、あなたが私の続きをすると思ったから。

あなたは、母親の未完成を完成させるために生まれたのではない」

その一文は、現在の娘へ向けたものでも、その子どもへ向けたものでもあった。

解体の時刻が来る。

最後の手紙を書く。

「家を壊します。

絵はどうすればいい?」

返事はなかった。

三十年前の母にとって、家が壊される日はまだ遠すぎるのかもしれない。

娘は絵を全部保存しなかった。

母が署名した数枚は額へ入れ、残りは写真に撮った。

一枚は台所へ飾った。

野菜を切る手を描いた絵だった。

子どもへ謝った。

「美術学校の話、もう私からはしない」

子どもはすぐ許さず、

「料理も、途中で嫌になるかもしれない」

と言った。

「そのときは?」

「私が決める」

家は壊れた。

壁の中の便りも終わった。

母の絵は、娘が受け継ぐ夢ではない。

母が自分の形で続けた生活の証拠として、現在の壁へ一枚だけ掛かった。