外側へ回る朝
大庭皐は、引っ越し業者へ新住所をまだ伝えていなかった。
別れた恋人と暮らした部屋を出るのに、行き先まで決めれば、本当に戻れなくなる。段ボールは積んだ。鍵の返却日も決まった。新居のカーテンも注文したのに、送り先を確定できず、買い物かごの中で二週間止まっている。それでも配送先の欄だけ、旧住所のままだった。
「逆光レコード」で、針が内側から外側へ進む十二インチ盤を見つけた。注意書きには〈通常再生不可・内周スタート〉。透明な盤面の中心近くに、始点を示す白い点がある。
店主は特殊なプレーヤーへ盤を置いた。針を中央近くへ慎重に下ろす。音は小さな機械音から始まり、針が外へ進むほど、人の呼吸、街の騒音、朝の鳥の声が重なった。終点は盤の縁ぎりぎり。いつものレコードなら始まる場所で、曲が終わる。
皐のスマートフォンには、元恋人へ送らないままの文章があった。
《やっぱり、もう少しだけここにいてもいい?》
別れを取り消したいのではない。知らない部屋で朝を迎えるのが怖いだけだ。
曲が終わる直前、店主は自動停止装置を切った。普通の設定では、針が外へ進む動きを故障と判断して止めてしまうからだ。盤の仕様に合わせ、機械側を変える。その手つきは静かで、特別なことをした顔をしなかった。
会計後、店主は白い点の位置が見える透明袋へ入れ、〈内側から再生〉の札を外側へ貼った。戻す向きを間違えないための表示だった。
皐は配送会社のページを開く。
旧住所を消し、新しい町の名を入力する。窓から海は見えないが、朝の光が入る部屋だ。確定ボタンを押したあと、元恋人への下書きも削除した。
寂しさは外へ広がった。小さくはならない。二人でいた部屋を中心にして考えれば、どの道も遠ざかる方向にしか見えなかった。
それでも皐は、始点を間違えたのではなく、いつもと違う方向へ再生しているのだと思えた。
店を出ると、夜が薄くなり始めていた。
皐は新住所へ向かう段ボールの追跡番号を、初めて保存した。