妹の部屋に鏡はない
伊吹さんは、妹思いの人だった。
私が姉妹の部屋へ引っ越したとき、萌黄さんの寝室には鏡が一枚もなかった。母親から体型を罵られ、鏡の前で毎朝体重を測らされたからだという。
「数字から離れる治療をしてるの」
伊吹さんはそう説明した。そう言いながら毎朝、萌黄さんの腰回りをメジャーで測った。数値は声に出さず、青いノートへ記録した。表紙には〈回復観察〉と書かれていた。
けれど洗面所には、薄い板のような体組成計があった。萌黄さんが乗ると自動で記録され、伊吹さんのスマートフォンへ通知が届く。食卓では姉がご飯を量り、妹の皿だけ写真に撮った。萌黄さんがパンを一枚足すと、伊吹さんは母親から届いた昔の写真を見せ、「このころへ戻りたいの」と尋ねた。写真の妹は、頬がこけていた。
「医師に見せるため」
私は疑わなかった。家族にしかできない支え方もあると思った。姉妹を母の家から連れ出したのは伊吹さんだと聞いていたので、萌黄さんが黙るたび、それを感謝の表れだと解釈した。
ある晩、萌黄さんが残業で遅くなり、伊吹さんは何度もアプリを更新した。帰宅した妹の鞄を開け、コンビニのレシートを探した。それから玄関で体組成計に乗せ、前日より六百グラム増えていると告げた。
「外で何を食べたの」
声は静かだったが、萌黄さんの肩が縮んだ。
翌朝、私は冷蔵庫の裏で小さな鏡を見つけた。萌黄さんが隠していたらしい。鏡の縁には付箋があり、〈私は太っていない。数字を姉に渡さなくていい〉と書かれていた。
その日の午後、萌黄さんは支援員と荷物を取りに来た。伊吹さんは「母の洗脳が戻った」と泣き、鏡を床へ叩きつけた。
「私が毎日見ていないと、この子は壊れるの」
萌黄さんは割れた鏡の一片を拾った。そこに映った自分へ、小さく「行こう」と言った。
二週間後、伊吹さんは空いた部屋に姿見を置いた。妹が戻ったとき、回復を確認するためだという。私はその前に退去すると伝えた。伊吹さんは、萌黄さんの状態を証言できる人がいなくなる、と私まで引き止めた。
姿見の上端には、体温と脈拍まで送信する新しいカメラが付いていた。