家族の合言葉

律希は、結婚前に家族の合言葉を決めようと言った。

生成AIで声を偽装する詐欺が増えているから、電話で本人か確かめるためだという。候補は「青い朝」。彼は私の声で何度も録音した。

「もう少し自然に。今度は笑って」

「風邪声の時も残しておこう」

安全のためならと、私は従った。

疑う理由はなかった。

最後には、銀行から聞かれそうな質問へ即答する練習までした。彼は合格と言って、私の頬にキスをした。

録音のたび、律希は音の波形を見て首をかしげた。「もっと長く母音を伸ばして」「息を吸う音も必要」と注文する。婚約写真より熱心に調整するので笑ったが、彼は「風香を守る練習だから」と真顔だった。私の端末にも保存してほしいと頼むと、情報が増えるほど危険だと言って、自分のパソコンだけへ移した。

不自然だったのは、合言葉だけでなく、住所や生年月日まで続けて言わせたことだ。もう一つ、何も話さない十秒間も録音した。雑音を除く見本だと説明された。

婚約者が慎重なのは頼もしい。銀行の手続きも保険の変更も、律希に任せるようになった。私が電話を苦手だと知って、代わりに確認してくれる優しさがうれしかった。

ある日、知らない金融会社から返済予定表が届いた。借入額は三百万円。申し込んでいないと伝えると、担当者は音声による本人確認が完了していると言った。

送られてきた記録には、私の声があった。

名前、生年月日、住所。途中で笑い、合言葉まで言っている。私が録った断片をつないだものだと分かった。

律希に聞くと、「式と新居のためだよ」と抱きしめられた。

「夫婦のお金になるんだから、誰が借りても同じだろ」

私は首を振った。すると彼は悲しそうに、私が浪費したから必要だったのだと言い始めた。まだ買っていない家具の領収書まで、私名義で揃っていた。

通話記録の最後に、審査担当者が「ご本人ですね」と尋ねた。

『はい、青い朝です』

本人確認を終えた女の声は、私より少しだけ幸せそうに笑っていた。