小豚の鼻と肉じゃが
奥脇杏奈を育てた叔父の康市は、肉じゃがを甘く作った。
母を亡くした杏奈が叔父の家へ来た初日、「母さんの味と違う」と泣くと、翌週から砂糖が一杯増えた。杏奈はそれを、叔父が母の真似をしているのだと思い、思春期には「どうせ本当の親じゃない」とまで言った。
康市は言い返さず、鍋の人参を大きく切り続けた。
叔父の総菜店を閉める日、店で飼っていた小豚のこてつが、棚の下から油染みたカードを鼻で押し出した。
母の字で書かれた肉じゃがのレシピだった。その下に叔父の追記がある。
〈杏奈は姉ちゃんの味を忘れたくないと言う。砂糖一杯足す。人参は避けやすく大きく〉
叔父は母になろうとしていたのではない。母の味を忘れないよう、横で支えていたのだ。
杏奈は最後の営業が終わった厨房で、鍋を火にかけた。
牛肉と玉葱を炒め、じゃが芋を加える。砂糖の匙を一杯、さらにもう一杯。醤油を入れると、甘辛い湯気が換気扇へ上がった。
人参は大きく切ろうとして、途中で包丁を止める。今はもう食べられる。半分だけ、小さく切った。
煮崩れたじゃが芋を口へ運ぶと、母の味とも叔父の味とも少し違う。甘さは懐かしく、人参には出汁が染みていた。
「本当の親じゃない、なんて言ってごめん」
厨房の壁へ向かって言う。
「本当の叔父さんだったのに」
こてつが足元で鼻を鳴らした。杏奈は味のついていない人参の端を別に茹で、一つだけ与えた。
店の看板は明日外す。それでもレシピカードは持ち帰り、家の台所でまた作るつもりだった。
鍋の底には甘い煮汁が残り、閉店後の店には醤油と玉葱の匂いが、長く働いた叔父の前掛けのように温かく掛かっていた。
翌日、看板を外しに来た常連へ、杏奈は残りの肉じゃがを小さな容器で配った。「康市さんの味だ」と言われるたび、以前なら母の味でもあると訂正しただろう。今はどちらも本当だと思えた。こてつの分だけは味つけ前に取り分けることも、叔父の帳面へ書き足した。
最後の鍋を洗うと、底に残った煮汁の輪がゆっくり消えた。杏奈は空の鍋へ蓋をせず、しばらく乾かした。次に何を煮るか決まっていない、その軽さも悪くなかった。