展示室の呼吸
市立美術館で、香坂志乃は温湿度計より先に展示ケースへ頬を近づけた。
空調の表示が五十パーセントでも、壁際とガラスの内側では空気が違う。志乃は和紙の反りや絵具の艶を見て、展示位置を数センチ動かし、夜中に吸湿材を交換した。
事務局長の橘川修司は、海外名画展の準備会議で彼女を笑った。
「一日中、湿度を見て歩くだけか。空調会社がいるのに給料泥棒を置く必要はない」
志乃は開幕一か月前に解雇された。橘川は展示ケースごとの記録を省き、中央監視室の数値だけを保存させた。
名画展が始まると、客は押し寄せた。入場者の熱と雨で、外壁に近いケースだけ湿度が上がった。中央センサーは正常だったため、誰も気づかなかった。
三日目、十七世紀の肖像画の青い絵具が、鱗のように浮いた。貸出元の保存官は展示を即時中止し、ほかの作品も箱へ戻した。保険会社は管理不備を理由に補償条件を凍結した。残りの会期はすべて返金となった。
橘川は空調会社の責任だと主張した。しかし、前年まで志乃が同じ場所へ置いていた補助センサーと吸湿材が、経費削減で撤去された記録が残っていた。
志乃は郊外の小さな歴史館へ移っていた。空調設備は古かったが、彼女は木炭と和紙を使った緩衝箱を作り、ケースごとの湿度変化を職員全員が読める表にした。
半年後、国外を巡回する染織品展の受け入れ審査が行われた。高価な空調を持つ館が並ぶ中、志乃の歴史館だけが停電試験でも湿度を一定に保った。
貸出財団と保険会社の合同会議に、橘川も再誘致のため出席した。
「設備規模なら市立美術館です。香坂を期間雇用で戻せば問題ありません」
保険会社の査定責任者は首を振った。
「香坂さんは設備の付属品ではありません」
巡回展の開催契約を歴史館へ差し出し、条件欄を読み上げた。
「保存統括を香坂志乃さんとすること。彼女が外れる場合、貸し出しも停止する」
志乃が署名すると、市立美術館の保険再審査は不承認となり、巡回展の地図から橘川の館だけが消えた。