山羊が食べる履歴書

会社を辞めたことを、男は家族へ言えずにいた。

朝はスーツで家を出て、図書館で求人票を見た。

履歴書には、

「困難にも動じない」

「人をまとめるのが得意」

「前向きな転職」

と書いた。

公園のベンチで推敲していると、白い服の少女が紙をのぞき込んだ。

頭の横に、短い角が二本ある。

子どもの頃、男は観光牧場で柵へ首を挟んだ山羊を助けた。

係員を呼び、泣きながら角を押した。

少女はその山羊だという。

「本人が信じていない言葉だけ、食べられます」

履歴書を一口かじる。

「困難にも動じない」が消えた。

次に「人をまとめる」が食べられる。

「前向き」も穴になった。

「何も残らない」

男が怒ると、少女は紙の端を噛んだ。

「食べられない言葉もあります」

残ったのは、

「二十年間、倉庫の在庫を管理」

「破損品を月ごとに記録」

「新人へ棚の場所を教えた」

という地味な事実だった。

男は管理職になれず、会社の縮小で退職を勧められた。

家族には、自分から新しい道を選んだと言っている。

本当は、捨てられたようで恥ずかしかった。

「正直に書けば採用される?」

「山羊は人事をしません」

少女は平然と答えた。

そこへ妻から電話が来た。

「今日も遅い?」

男は反射的に、

「面接が」

と言いかけた。

少女が電話のコードもない空中へ歯を立てる。

嘘の言葉だけが喉から食べられたように、声が出ない。

「会社を辞めた」

ようやく言うと、妻は長く黙った。

「いつ?」

「二週間前」

「どうして言わなかったの」

「役に立たない人になった気がした」

妻は怒った。

家計の心配も、毎朝嘘をつかれたことも責めた。

そのあと、

「帰ってきて。求人票は一緒に見る」

と言った。

家では、子どもにも話した。

子どもは、

「朝、スーツで図書館へ行く方が変」

と笑い、学校の職業体験で見た物流会社を教えた。

男は履歴書を書き直した。

強さや統率力ではなく、物の場所を覚え、足りない物を見つけ、同じ仕事を続けられることを書く。

白い少女は最後に、退職理由の欄を見た。

「ここは?」

「会社都合。でも、次は自分で選ぶ」

少女は食べず、満足そうに紙を返した。

山羊へ戻り、公園の植え込みへ消える前に、

「紙より先に、自分を捨てないで」

と鳴いた。

男は物流倉庫の仕事へ応募した。

最初の会社より給料は下がり、役職もない。

面接では退職を隠さず、失敗した棚卸しの話もした。

採用通知が来た日、家族で野菜を買いすぎた。

山羊への礼に公園へ持っていこうとして、妻に止められた。

代わりに三人で食べた。

履歴書に残ったのは、立派な自分ではない。

家族へ帰ってからも続けられる、食べられなかった事実だった。