山羊小屋の小さな屋根
ナディアが廃農場へ着くと、母屋より先に鳴き声がした。
崩れかけた物置の奥に、年老いた山羊が一頭いた。前の住人が置いていったのだろう。痩せてはいるが、琥珀色の目はしっかりしている。問題は、山羊の真上だけ屋根が抜け、夕立の雲が近づいていることだった。
母屋にも穴は七つある。けれどナディアは荷車から工具箱を下ろし、山羊小屋へ向かった。
今日直すのは、この一畳ぶんだけ。
山羊は作業中ずっと、落ちた木屑を食べられるものか確かめていた。ナディアはそのたび鼻先から木片を取り上げ、代わりに乾いた葉を渡した。
王立施療院で薬師をしていた頃、ナディアは患者の食事や寝具まで気に掛けた。院長には「薬師は処方だけしろ」と叱られ、貴族の薬代を貧しい子の治療へ回したことで追放された。多くを救おうとした彼女に、誰も休む場所は用意してくれなかった。
屋根へ上がると、垂木が一本折れていた。ナディアは裏庭の榛を切り、同じ長さへ削る。折れた木を全部捨てず、丈夫な部分を添え木に使った。薬草を束ねる麻紐で仮留めし、木釘を打つ。
山羊が下から、めえ、と鳴いた。
「診察は終わるまで待って」
雲が暗くなる。ナディアは古い屋根板を重ね、最後に油布を張った。最後の釘を打った瞬間、夕立が来た。
雨は油布を強く叩いたが、小屋の中へは落ちない。山羊は乾いた藁の上で座り込み、満足そうに反芻を始めた。
雨が弱まると、山羊は礼のつもりか少しだけ乳を出した。ナディアは鍋で温め、蜂蜜と乾燥生姜を加えた。湯気には草と甘みの匂いが混じり、冷えた指先が椀越しにほどけていく。
山羊の首輪には、泥で見えなかった名札が付いていた。布で拭くと、『シエラ』という名と、前の住人の短い文字が現れる。
『この子は雨が嫌い。屋根を直せた人に託す』
命令でも、所有証でもない。世話を続けられる者への頼みだった。
「シエラ。ここにいていい?」
山羊は答える代わりに、ナディアの肩へ額を押し付けた。腕に淡い光が走り、薬師の鑑定表示が現れる。
【山羊シエラ:安心】
【新しい飼い主への信頼:八十六パーセント】
数字はさらに一つ上がった。
ナディアは干し草を足し、自分は温かな乳を飲む。王立施療院では千人を診ても、安心したかどうかを確かめる時間はなかった。
母屋の屋根はまだ穴だらけだった。それでも今夜、彼女には雨から守れた患者と、明日も診られる家族が一頭いた。