布越しの三打
萩原咲良が三音堂へ持ち込んだ懐中時計は、暗闇でも時刻を知らせる仕組みを持っていた。
側面の小さなレバーを引くと、内部の鐘が時間と十五分を音で打つ。祖父の遺品だが、咲良が譲り受けてから一度も鳴らしていない。音が割れている気がして、点検を頼んだ。
咲良は文章を書く仕事をしている。匿名で発表した短いエッセイが賞に選ばれ、授賞企画として本人朗読の音源を求められた。顔は出さなくていい。名前も筆名のままでいい。ただ、自分の声で読む必要がある。
咲良は録音を二十七回やり直した。地方の抑揚が残る。息継ぎが近い。緊張すると最初の音がわずかにつかえる。編集すれば消せるのに、消すほど誰の声でもなくなり、送信期限が今夜になった。
選ばれた文章には、台所の換気扇や祖母の方言を書いた。声だけを無菌に整えるほど、書いたものとの距離が広がっていった。
店主は懐中時計の裏蓋を開け、細い部品へ油を一滴だけ落とした。蓋を閉じ、レバーを引く。
高い音が三度、低い音が一度鳴った。割れてはいない。小さな金属の震えが、木のカウンターまで伝わった。
店主は次に時計を厚い紺色の布袋へ入れ、その上からレバーを引いた。布越しの音は柔らかくなったが、三打と一打の違いは聞き取れた。
咲良が「包むと、こんなに変わるんですね」と言うと、店主は返事の代わりに袋の口を少し緩めた。音の出口を塞がない幅だった。
会計を待つ間、咲良は録音一覧を開いた。二十七番目ではなく、最初の一回を選ぶ。文章を間違えず、息を吸う音も、冒頭の小さなつかえも残っている音源だった。
ファイル名の〈仮〉を消し、送信する。
店主は懐中時計を布袋に入れたまま箱へ収めた。蓋を閉じる前にもう一度レバーを引く。今度は箱の中から音がした。見えなくても、三度と一度は確かに届いた。
咲良の端末に受領通知が表示された。自分の声が遠くへ行くことを考えると、まだ喉が狭くなる。
それでも紙袋を持ち上げたとき、布越しの最後の余韻が、掌にかすかに残っていた。