帰宅音だけのラブソング
失踪した恋人の新曲には、歌より先に玄関の鍵が鳴った。
碓氷邑李は記者会見の壇上で、再生ボタンを押した。歌い手の雨縫シエルが消えて三週間。恋人である邑李は、毎日「帰ってきてほしい」と訴え、今夜、彼女が残した一曲を公開することになった。邑李はカメラの前で毎日眠れないと語り、捜索費用の寄付まで募っていた。
イントロに、金属が二度回る音。
「帰っておいで」
邑李は目を伏せた。シエルが帰宅するたび、自分がそう声をかけていた。Aメロでは、靴を脱ぐ音、チェーンを掛ける音、窓のロックを確かめる音がリズムになる。二人の生活を切り取ったラブソングだと説明すると、記者たちは同情的にうなずいた。
「帰っておいで」
サビへ入る直前、鍵の音が逆再生された。閉まるはずのチェーンが外れ、窓のロックが開く。続いて、邑李の声が何層にも重なった。
〈どこにいる〉
〈写真を送れ〉
〈男の声がした〉
〈帰るまで配信を切るな〉
邑李は慌てて停止ボタンを押したが、曲は会見場のすべての端末へ分散再生されている。スピーカーを切っても、記者のスマートフォンから同じ声が鳴った。
画面には、シエルの自宅ではなく邑李の部屋の間取りが表示された。壁一面に彼女の写真、移動履歴、盗んだ合鍵。二人は恋人ではなかった。邑李は配信で知り合った後、交際を断られても自宅へ押しかけ、恋人を名乗り続けていた。
記者席がざわめく。邑李は「編集された」と叫んだ。だが最後のサビで、彼自身が毎晩送った音声メッセージの波形が並ぶ。曲の旋律は、その脅迫の抑揚だけで作られていた。
最後の一音は、シエルが新しい住居の鍵を内側から掛ける音だった。
画面に代理人の声明が出る。
〈本人は保護下にあり、接近禁止命令を申請済みです〉
会見場の扉から警察が入る。邑李の端末が証拠として回収される直前、三度目の自分の声が流れた。
「帰っておいで」
失踪した恋人を案じる呼びかけではない。逃げた人間を所有物のように呼び戻そうとした、追跡者の命令そのものだった。