幕の向こうの椅子

 私の番号は二十七だった。

 常任首席の鏑木正路は、その札を見て笑った。

「受けても恥をかくだけだ。若手は独奏より、椅子を並べろ」

 私の譜面台だけ一脚足りない日が続いた。合奏直前に楽譜が別の棚へ移り、探せば《準備不足》。間違えずに弾けば《目立とうとしている》。席は少しずつ舞台の端へ動いた。

 だから私は早く来た。誰もいない舞台で椅子の脚が立てる音を聞き、客席の最後列まで何歩あるか数えた。暖房の切れた廊下で、弓を持たずに運指を繰り返した。楽譜がなくても、音が身体の中で次の音を呼ぶまで覚えた。

 後輩が私の譜面を拾ってくれた日は、鏑木はその子まで合奏から外した。私はもう、人に探してもらわずに済むよう、全ページを写真ではなく耳へ入れた。

 次回公演の独奏者選考は、幕の向こうで行われる。審査員に聞こえるのは演奏だけ。名前は、監査役が封筒へ入れて保管した。

 当日、私の控室には別の曲の譜面と、応募辞退届が置かれていた。理由欄には《実力不足を自覚》。署名欄だけが空白だった。

 私は辞退届を受付へ返し、空の譜面台の前に立った。

 幕の向こうで誰かが咳をした。審査員の鉛筆が机へ触れる音がした。私は鏑木の評定も、空の辞退届も、舞台の外へ置いた。弓を置く位置を決める。最初の一音は細かったが、二音目からホールの奥へ届いた。最終音が消えるまで、譜面台の空白は見なかった。

 選ばれたのは二十七番だった。番号が読み上げられた瞬間、端の席にいた団員たちが私を見た。鏑木だけは、別の奏者の肩を叩いた。

 舞台へ戻ると、鏑木が団員へ言っていた。

「私が育てた奏者です。推薦して正解でした」

 事務局が番号対応表の封筒を運ぶ。鏑木は「開ける必要はない」と手を伸ばした。

 指揮者が先に封を切る。

 紙の上に、二十七番。その横に、私の名前があった。別の譜面を私の控室へ移した貸出記録も、事務局の事故報告として添えられていた。

 指揮者は舞台中央の一脚を指した。

「次回公演のソリストは、卯月鈴音です」