年収欄を伏せる
採用面接の開始十分前、大庭琴葉は候補者資料の右端に、現在の年収が残っていることに気づいた。
後輩が社内面談用の原本をそのまま企業へ共有し、非公開にする列を隠しただけだった。列は画面では見えないが、ファイルを開き直せば戻せる。候補者は「現年収ではなく、担当範囲と市場水準で評価してほしい」と繰り返し伝えていた。
求人の上限は、候補者の希望より百万円高い。企業側が現年収を知れば、提示額を下げる材料に使うかもしれない。営業責任者は「面接官はもうダウンロードしている。今さら騒ぐと、候補者にも不安を与える」と言った。
琴葉は共有を停止し、面接官へ古いファイルの削除を依頼した。開始時刻を十五分ずらし、個人情報を除いた資料を再送する。候補者には、会社側のミスで情報が共有された可能性と、回収状況を隠さず伝えた。
後輩は顔を伏せた。
「列を非表示にすれば見えないと思っていました」
「見えないことと、入っていないことは違う。候補者が預けた情報は、使わない相手へ渡さないところまでが仕事」
琴葉は社外共有用の資料を別テンプレートにし、年収、住所、家族情報を最初から取り込まない設定へ変えた。送信前には、別の人がファイルをダウンロードし、非表示列やコメント、変更履歴まで確認する工程を入れた。
面接は十七分遅れて始まった。企業側は削除完了を文書で回答し、評価は実務課題と希望条件だけで行うと約束した。候補者は面接を受ける選択をした。「伝えてくれたので、自分で決められます」と電話口で言われた。琴葉は、安心させるために事故を伏せることは、相手から選択を奪うことでもあると知った。後輩は面接後、非表示列を消しただけのファイルを自分で開き直し、見える情報を一つずつ確認した。
営業責任者は、年収情報があった方が条件交渉は早いとまだ言った。琴葉は、自分の昇格候補欄に付いていた〈法人営業マネージャー〉を外した。
代わりに、候補者支援チームの社内公募へ、今回の改善案を添付した。
面接室の扉が閉まる音を聞きながら、琴葉は異動希望を提出した。