床を白くしない契約

清掃会社の営業・枝折冬馬は、閉店後の焼肉店へ呼ばれた。

「厨房の床を今夜中に白くしてほしい。競合は半額だ」

店長は油で黒ずんだ床を示した。翌朝、保健所の確認があるという。

冬馬は見積書を出さず、隅の一平方メートルだけテスト施工をさせてほしいと頼んだ。競合が提示した強い薬剤を同じ希釈率で使うと、汚れはすぐ落ちた。だが水で流したあと、床の表面まで白く粉を吹いた。

油ではない。滑り止めの樹脂が劣化していた。

「全部これで洗えば、明朝はきれいです」

店長が明るい顔をした。

冬馬は濡れた試験箇所へ靴を置き、軽く押した。靴底が横へ滑った。営業終了後の乾いた写真だけでは分からない。営業中、油と水が重なれば、配膳員が転ぶ。

排水口へ水を流すと、一か所だけ戻りが遅かった。強い洗浄を一気に行えば汚水が客席側へあふれ、乾燥が開店に間に合わない。冬馬は区画を三つに分け、吸引が終わった場所から送風機を移す順番を壁へ貼った。

彼は今夜の目的を「白くする」から「安全に営業できる」に変えた。強い薬剤は使わず、温水と吸引で表面の油だけを除く。排水口周りは手作業にし、劣化した部分には仮の滑り止め材を施工する。古い膜を落として塗り直す作業は、定休日に分ける。

料金は競合より高く、今夜だけでは新品の色に戻らない。

「保健所に汚いと思われる」

「転倒事故が起きれば、床の色では済みません」

冬馬は清掃前後の油分測定値と、劣化箇所の写真を一枚の報告書にまとめた。見た目ではなく、衛生と安全の処置を説明できる形にした。

午前三時、床は灰色のままだったが、靴は滑らなくなった。店長はテスト施工で白くなった一角を見て、初めてそこだけが危険に見えると言った。

今夜の緊急清掃と、次の定休日の再塗装が契約になった。定期契約はその結果を見てからにした。

冬馬が機材を車へ積むと、事務所から連絡が入った。

「別の店が、床を鏡みたいに光らせたいそうです」

彼はエンジンをかけ、まず客席で何を運ぶ店か尋ねた。