後継者の席を空ける
黒川綾芽は、旅館の予約台帳から自分の名前を消した。
来年四月の欄に、母の字で〈綾芽、若女将として挨拶〉と書かれていた。家族会議は夕食を兼ね、広間の上座には祖母、母、そして綾芽の席が並んでいる。
綾芽は自分の座布団を一つ下の席へ移した。
「何をしてるの」
母が聞いた。
「若女将の席には座らない」
綾芽は東京のホテルで広報をしている。家業の旅館を嫌いではない。だから季節の写真を撮り、予約サイトを整え、月に一度は無償で手伝ってきた。その手伝いが、いつの間にか帰郷の承諾として台帳へ書かれていた。
前月、母は従業員へ「東京で修業させている」と説明した。綾芽の就職も部屋も、家業へ戻るまでの仮の時間に変えられていた。
祖母が言った。
「長女が継ぐのは昔から決まってる」
「私が決めたことではないよ」
母は膳の刺身へ箸をつけず、「お父さんが亡くなってから、二人で守ってきたのに」と言った。
綾芽の胸が痛んだ。母が疲れていることも、旅館が人手不足なことも知っている。だが知っていることと、自分の人生を差し出すことは同じではない。
「来年度から、サイトの手伝いも仕事として契約したい。月二回、報酬と作業範囲を決める。それ以上はしない」
「家族からお金を取るの?」
「家族だから、曖昧にしない。できない月もある」
母は「冷たい」と言った。祖母は「都会へ行くと皆そうなる」と呟いた。
綾芽は予約台帳を母の前へ戻した。
「継ぐ人を探す相談なら参加する。私を継ぐ人として数える会議には、次から出ない」
広間が静かになった。外では玄関の鈴が鳴り、従業員が客を迎える声がした。旅館は綾芽が席を移しても営業を続けている。
食事の終わり、母が消した欄を見ながら尋ねた。
「写真撮影だけ、春も頼める?」
「日程を見て、仕事として返事する」
母は不満そうだったが、「分かった」と鉛筆で書いた。〈綾芽〉の代わりに〈後継者候補・未定〉。
綾芽はその文字を直さなかった。空いた席を見捨てたのではない。誰かの名前を勝手に書かない場所へ戻したのだ。