懐かしさの道標

 角に鈴を結んだ鹿の精霊は、懐かしさを食べているあいだだけ、帰るべき家への道を示す。

 道が長ければ長いほど多くを食べ、辿り着くころには、故郷を懐かしいと思う心が残らないこともある。

 オルフェナは弟サイの手を引き、霧の原で鹿を呼んだ。

 村を追われてから十二年。領主が替わり、戻ってよいという知らせは届いたが、峠も川も名前を変え、地図は役に立たなかった。

「姉さんは覚えてる?」

 十歳だったサイは、故郷をほとんど知らない。

「家の前に梨の木があった。春になると、雪みたいに花が降ったの」

「僕にも分かるかな。そこが家だって」

 オルフェナは、分かると答えた。

 自分の胸には、帰りたいという痛みが十二年分ある。母が焼いた黒パンの匂い。井戸の滑車の音。納屋の壁に刻んだ二人の背丈。目を閉じれば、どの道を曲がるかまで思い出せた。

 鹿が最初の懐かしさを啄むと、角の鈴が東を指して鳴った。

 二人は霧の中を歩いた。

 一日目、幼なじみと泳いだ川の冷たさが食べられた。

 二日目、祭りで初めて紅を差したときの胸の高鳴り。

 三日目には、追放の日に振り返った屋根の色まで薄くなった。

 道は確かになるほど、目的地の意味を失っていく。

「もう戻ろう」

 峠でサイが言った。

「姉さん、さっきから家の話をしなくなった」

 オルフェナは返事に詰まった。

 梨の木があったことは覚えている。だが白い花を想像しても、他人の庭のようにしか見えない。

 それでも弟の掌は汗ばんでいた。サイにとって故郷は記憶ではなく、姉が語った物語だ。その終わりを見せる責任がある。

 最後の夜、鹿は村へ続く石橋の前で立ち止まった。

「あと一つ」

「何を食べるの」

「おまえが最も帰りたかった瞬間」

 それは、異国の工房で初めて給金をもらった夜だった。

 硬い寝台に横たわり、これでいつか二人分の旅費を貯められると思った。窓の外の月を、故郷の井戸にも映っているだろうかと見上げた。

 あの夜から、帰郷はオルフェナの人生の方角だった。

「食べたら、橋の向こうへ行きたいと思わなくなるよ」

 鹿が静かに告げる。

 霧の向こうで、梨の花らしき白いものが揺れた。

 サイが息を呑む。

「姉さん、見て」

 オルフェナは弟の背を押し、鹿へ胸を開いた。

「この子が家だと分かるところまで、道を照らして」

 鈴が鳴り、最後の懐かしさが角へ吸い込まれる。

 石橋の先に村が現れた。

 サイは泣きながら走り出す。

 オルフェナもあとを追った。梨の花は美しかった。

 けれど門をくぐった瞬間、彼女には、なぜ長い旅をしてここへ来たのかだけが分からなくなった。