戻りたくない道
若林紗英は、実家へ帰るたびに「どっちでもいい」と答える。
家業を継ぐのか。都会の仕事を続けるのか。結婚する気はあるのか。決めないままなら、誰も失望させずに済む気がした。父は店の図面を送り、母は地元企業の求人を転送する。都会の上司は来期の担当を尋ねる。紗英はどちらにも曖昧な笑顔を返し、選ばないことで両方を保っているつもりだった。実際には、返事を待つ通知だけが増えていた。都会の部屋は来月が更新期限で、家の店は改装の設計を始めるという。どちらにも時間があるふりをしているうち、選ばなかった側ではなく、両方から置いていかれる期限が近づいていた。それでも紗英は、大きな決断には確信が必要だと思っていた。
帰省最終日の朝、紗英は一人で低い山へ登った。子どものころから知る遊歩道には、途中で二つの道がある。右は舗装された展望台、左は急な尾根。いつも家族と右へ行った。
分岐のベンチに、双眼鏡を下げた年上の女がいた。七十を越えていそうなのに、靴には新しい泥がついている。御厨峰子と名乗り、渡り鳥を待っていると言った。
「どちらへ行きたいの?」
「どちらでも」
峰子は双眼鏡を外した。
「行きたい道がわからないとき、どちらへ戻りたくない?」
紗英は黙った。右の道には、家族と撮った写真が何枚もある。安全で、景色も知っている。左は途中で引き返すかもしれない。
峰子はポケットから小さな方位磁針を出し、掌で回した。
「次の分岐だけ、戻りたくないほうを選んでみて。山の外まで決めなくていい」
それから鳥の声に顔を上げ、紗英の返事を待たなかった。
右の舗装路から、家族連れの笑い声が聞こえる。紗英の靴は自然にそちらへ向いた。帰れば母が昼食を用意し、また家業の話になる。紗英はたぶん、「考えておく」と答える。
左の尾根には、濡れた土と細い木の根が続いていた。景色は見えない。
紗英は右へ出しかけた足を戻した。方位磁針も、未来の保証も持っていない。それでも左の標識へ手を触れ、初めて一人で尾根道へ踏み込んだ。