投了しない
囲碁部最後の対局は、終わらなかった。
宗一と初音は、昼休みから打ち始めた。三年間の通算成績は宗一の四十九勝、初音の四十九勝。百局目で決めようと言っていたのに、大会や試験で延び、引退日が先に来た。
盤の中央で大きな石が絡み合った。
「そこ、死んでる」
初音が黒石の一団を指す。
「まだ生きる」
「希望的観測」
「青春なので」
「盤上に青春を持ち込まないで」
宗一は白石を置いた。
放課後になり、後輩が一人ずつ帰った。顧問は「鍵だけ職員室へ」と言い残した。窓が夕焼けから群青へ変わっても、二人は盤を挟んでいた。
形勢はわからない。
宗一は中央で攻めているが、右下の地が薄い。初音は隅を確保した代わりに、左辺の石が逃げ切れない。
どちらかが投了すれば終わる。
けれど二人とも、負けることより、盤を崩すことを怖がっていた。
「閉門十五分前です」
校内放送が流れた。
「早碁にする?」と宗一。
「今さら」
「一手五秒」
「この局を雑に終わらせたくない」
「じゃあ明日」
「明日から部室、二年生のもの」
「盤を借りる」
「私は明日の朝、出発」
初音は県外の寮へ入る。宗一は町に残る。次に会う日を、二人とも決めていなかった。
宗一は碁笥へ手を入れたまま、石を選べずにいた。
「写真を撮ろう」と初音が言う。
「盤面を?」
「続きが打てる」
「写真を見たら、正解を考えすぎる」
「宗一は見なくても考える」
「初音も」
残り五分。
初音は小さな紙を二枚出した。大会で使った記録用紙の裏だった。
「次に打つ場所を、それぞれ書く」
「同じ場所だったら?」
「先に会ったほうが打つ」
「何年後でも?」
「盤を覚えていたら」
二人は互いに隠して座標を書き、紙を折って交換した。
宗一の胸ポケットに、初音の次の一手が入る。初音の筆箱には、宗一の一手。
盤面は写真に撮らなかった。
「覚えられる?」と初音。
「右上、白十二、黒九。中央の黒が危ない」
「危ないじゃなくて死んでる」
「次で生きる」
「次があればね」
「あるから投了しない」
閉門のベルが鳴った。
二人は石を一つずつ碁笥へ戻した。形が崩れるたび、長かった対局がただの白と黒へ戻っていく。
最後に盤を拭き、礼をした。
勝敗は五十勝目にならなかった。
それでも宗一は、空になった盤を見て負けたとは思わなかった。胸ポケットの紙がある限り、百局目は終局ではなく、ただ長い長い考慮時間に入っただけだった。